勝手に!お悩み相談「他人の視線が気になる」
最近シリーズものが好きで、次はお悩み相談的記事をいくつか書きます!
とはいえ、誰かのお悩みに対して助言するのではなく私が勝手ながらテーマを設定して、それについて色々引用しながら書くというものです。
何かお役に立てれば幸いです!
しばし、お付き合いください^^
第一回目のテーマは、「他人の視線が気になる」です。
実は、私の良く感じていた悩みです。
なんか分からないけど、見られている感じがするんですね笑
街を歩いていて、学校で、職場で、カフェで…
他人に、自分の在り方を評価されている感覚。
自意識過剰なのは分かっているし、他の人が自分にそこまで関心がないのも分かっている。
でも、他者の視線にさらされることが息苦しい。
皆さんはこんな経験ございませんか?
もし、経験があったらこの記事はあなたの役に立つかもしれません。
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス (上)』より
他人の視線にどう向き合うのか、知恵を授かりたいと思います。
まずは、好きな作家の村上春樹の本の抜粋から。
他人の視線は常に自分を評価しているように感じられます。
しかし、それは自分の問題ではなく、他人の問題ですよと。
見られている自分がその視線を気にする必要はない。
なぜなら、自分をどう見るかは、自分を見ている人側の問題だから。
もう一箇所ありました。
どういった文脈でこの発言があるのか分からず恐縮ですが、読んでいて胸に刺さった一文でした。
他人から良く見られたいと思うことは、あるでしょう。
しかし、自分の人生が大切ですよと。
人にいい顔するために生きている訳ではないので、
他人にどう見られているか気になっても、
そんなに悩む必要もないかもしれませんね。
サルトルならどう言うだろうか
次にサルトルだったら、何と言うか考えたいと思います。
サルトルの『嘔吐』の中で、浮浪者の主人公が街の功績者の似顔絵/写真に対峙する場面があります。それらは自分を裁くようなまなざしで見てくるように感じられる。その際、主人公は自分を裁く視線を見つめ返して、相手を逆に裁こうと試みます。
サルトルは、他人から見られる対象としての自分のことを「対他存在」と言いました。対他存在としての自分をつくるのは他人の視線であり、対他存在であることだけに甘んじるならば、それはもはや他有化だと言います。
他有化されてはダメだ。他人が判断する自分の像は、そのままにせず自らの主観の中で引き受け直す必要があると主張します。
つまり、他人の視線は、かみ砕いて自らの中で捉えなおすことが重要だと言います。
私は、以上を受けてサルトルに相談したなら、
「他者の視線に惑わされるな。それはあなたを決定づけるものではない。あなたの在り方を最後に決めるのはあなた自身だ。」
なんて言うんじゃないかな~と思います。
誰にどう見られようが、自分は自分だよ。他人が思う「あなた」というものがあろうと、あなたの在り方は他でもないあなたが決めるものだ。
ということですね。
*本記事では、サルトルの思想を大分自己流で解釈しております。サルトルにお詳しい方、捉え方が異なる部分などあるかもしれませんが、何卒ご容赦ください。
筆者より
村上春樹とサルトルから貴重な言葉をもらえましたね。
他人から見られることは気になるかもしれませんが、
あくまで他人があなたを勝手に見ているだけです。
他人に勝手に自分の在り方を決めつけられるのは嫌ですよね。
そんなときは拒否しましょう。
他人の視線によってあなたが決定づけられることは拒否できる。
最終的にあなたの在り方を決められるのは、あなたしかいませんからね。
こんなところで勝手にお悩み相談第一回おひらきです!
見てくださりありがとうございました~~
参考文献
海老坂武、『NHK「100分de名著」ブックス サルトル 実存主義とは何か: 希望と自由の哲学』、NHK出版、2020年。
村上春樹、『ダンス・ダンス・ダンス (上)』、講談社、2004年。
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