見出し画像

『少年とリング屋』TAJIRI著(新刊ためしよみ)

小説家TAJIRI始動。
プロレス、夢、「何者」かになる──。
表題作『少年とリング屋』から試し読みを先行公開。

 バラバラに解体され、暗闇に息を潜める闘いの巨神。少年の目にはそう映っていた。
 巨神の筋肉を構成する60枚の細長い板と、骨となる細い鉄骨が16本。どちらも長さは3m。平らに敷き詰められている。

 衝撃吸収の脂肪となる16枚のウレタンマット。手脚となる赤と青に塗られた鉄の円柱が2本ずつ。輪っかにくびられた3本のワイヤー入りゴム製ロープは神経となる。折り畳んで丸められた帆布製キャンバスは皮膚の塊……つい先ほどまで観客の前で煌々とライトを浴びていたプロレスのリングが解体され、体育館裏に横付けされたトラックのコンテナでひっそりと、夜の外灯に照らされ横たわっている。リングの上は巨神の手のひら。そこで闘いを繰り広げるのがプロレスラー……それが少年のイメージだった。
 歩幅が均等ではない足音が近づいてくる。少年の意識は現実に引き戻された。いましかなかった。少年は、コンテナの中にしのび込んだ。巨神の懐へ飛び乗る無礼は、心の中で十字を切ることで勘弁してもらえるだろうか。
 少年は体育座りの姿勢で両足を抱え横になり、中学3年生にしては小柄な体を小さく丸める。ちょうど同じくらいの大きさの、丸まったキャンバスの陰にうまく隠れることができた。今夜もたっぷり浸み込んだ、プロレスラーたちの血と汗の匂いが漂ってくる。コンテナの外、すぐそこに誰かがいる。乗り込んではこないだろうか。心臓の鼓動が伝わりはしないだろうか。両開きのコンテナの扉が片方ずつ閉められた。気付かれなかった。うまくいった!
 一瞬ちらりと見えた扉を閉める誰かの姿。それが誰なのか、プロレスマニアの少年にはすぐにわかった。リングを設営し解体するリング屋。リングの設営・解体作業を手掛ける人は、マニアなら知っている業界用語で『リング屋』と呼ばれている。少年はいつも会場を追い出されるまで解体現場を眺めているので、そのリング屋を一方的に見知っていた。剃り上げた頭。垂れ下がった瞼。血走った白眼に浮かぶ鶏のような黒眼。天を向いた鼻。分厚い唇から飛び出す2本の前歯。遠慮容赦のない言い方をすれば、要するに酷い顔だ。さらには錆びたドラム缶のようなズン胴の体型はプロレスラーと較べても遜色ないほど屈強だが、なぜかいつも片方の脚を引きずっている。そして少年は知っていた。一部のマニアたちは、そのリング屋を「バケモノ」と呼んでいることを。しかし愛するプロレスに携わる人を「バケモノ」などと呼びたくはない少年は、勝手におっちゃんと名付けている。以前テレビの昭和アニメ特集で見たボクシング漫画で、黒い眼帯をかけ腹巻をつけた『おっちゃん』と呼ばれるキャラクターに見た目も雰囲気もよく似ているからだ。おっちゃんはいつも会場でしゃがれた声を張り上げ、解体作業を仕切っていた。

 閉じられたコンテナの中。上下も左右も存在しない真っ暗闇。無の音が聞こえる。自分の形も大きさも存在しなくなったようで不安に襲われたが、何か固いものに頭をぶつけると自分を認識して安心できた。スマホがあればライトで照らせるのに「プロレスの動画ばかり見てもっと勉強しなくなる」と、母に買ってもらえなかった先日の記憶が蘇った。確かにスマホを買ってもらったらプロレス動画はたくさん見たかもしれない。しかしこうしてそれ以外の用途で必要な場合だってあり得るのだ。いつも深い部分を知ろうともせず頭ごなしに否定ばかりする。何一つわかっちゃいない。わかろうともしない。心の中で母をなじった。
 コンテナの外から誰かの会話が聞こえてくる。しゃがれた声とかん高いハキハキした声。その二人が誰なのか、少年にはすぐにわかった。おっちゃんと、いつも売店で声を張り上げグッズを売っている若いスタッフに違いなかった。プロレスマニアの情報収集処理能力。正解かどうかはわからなくともマニアごころが満足する。
「きょう途中で泊まるんすか?」
「いや、明日が楽だからハネるよ」
「ヤマいかないでくださいよ」
「ヤマいかないで」というのは、やはりマニアなら知っているプロレス業界用語で「怪我しないで」とか「不運に見舞われないで」という意味だ。なのでここでは「事故を起こさないでくださいね」と気遣いの言葉をかけたことになる。明日の試合開催地は大阪だ。ここ八王子富士森公園体育館からだとゆっくりでも8時間ほどで到着するはず。何年か前の夏、家族と車で関西旅行にいったときがそれくらいだった。そういえば昔は家族でよく出かけたのに、いつのころからだろう。そういうこともまったくなくなったのは……暗闇が揺れる。運転席におっちゃんが乗り込んだに違いない。叩きつけるようにドアを閉じる音がした。エンジンがかかる。トラックは走り出した。

 しばらくして高揚した気持ちが落ち着いてくると、少年は腹が減っていることに気が付いた。しかし8時間くらい我慢できるだろう。それより途中で荷崩れしないかという心配があったが、見えないキャンバスのザラザラした肌触りに身をもたげると愛するプロレスの匂いに心安らぎ、空腹を忘れ眠気がきた。こうしてプロレスだけに触れて生きていたい。ずっと「こっち」に居続けたい。家も学校も「あっち」はいやなことだらけだ。この時間が永遠に続けばいい……いつしか眠りに落ちていた。

 暗闇でトイレを探す夢をみていた。目を開ける。夢と同じ暗闇。しかし、激しい尿意はリアルだった。あれから何時間経ったのだろう。暗闇の中で、時間の感覚も完全に失っていた。下っ腹が破裂しそう。しかし、神聖なるリングが積まれた空間で小便などするわけにはいかない。外に出るしかなかった。
 コンテナの壁を叩いて、中にいることを知らせよう。下腹部を刺激しないようゆっくり立ち上がろうとしたが、上下左右のない暗闇ではバランスをとる基準がないことを初めて知った。立てない。むやみやたらに手を伸ばすと、どうにか壁に触れることができた。そこを基準に座った姿勢のままゆっくりと体を近づけていく。思い切り壁を叩いた。しかし反応はない。さらに何度も叩き続けると、トラックはいきなり大きく減速した。少年の体が斜めに大きく揺れる。脇道に入ったのだろう。
エンジンだけが振動している。暗闇が半面ずつ開かれた。久しぶりの外界の空気が流れ込んでくる。夜の外灯の明るさたるや。おっちゃんの四角いシルエット。いったん怒られるであろうことは覚悟していた。
「すみません!トイレ……トイレいかせてください!」
「誰だオメエ!?」

 深夜に煌々とあかりが灯っていることも、そんな時間に普通に活動している人々の姿があることも、さらにはそんな時間に目の前にカツカレーがあることも。すべてが少年の日常にはありえない、非日常の光景だった。パーキングの時計は午前3時前を指している。少年の正面に座っているおっちゃんを見て誰もが驚いた顔をみせるのは、バケモノと呼ばれる酷い顔によるものなのか。あるいはTシャツから飛び出した消火器のように太い腕によるものなのか。どちらにしろ振り返り見ては、甲羅を背負ったような分厚い背中に書かれた『ニュー日本プロレス』の文字に納得した表情を浮かべている。そんなおっちゃんと二人きりでいる非日常も「こっち」にいるようで誇らしかった。
 カツカレーをたいらげた少年がお茶を飲み干しゲップをすると、おっちゃんはゆっくりと口を開いた。
「満足したか?」
「ごちそうさまでした!」
「で、キミはなんでこんな無茶なことをしたんだ?」
 尋問する刑事のような口調だった。近づいてきたおっちゃんの顔に一瞬たじろぐ。少年はおっちゃんに、昨日の夕方に自宅で起きた出来事を語り始めた。

 昨日の夕方。少年は母親に内緒でプロレスを観にいこうとしていた。
「ちょっと翔悟どこいくの、明日からテストでしょ」
 こっそりでかけるつもりだったが、玄関先でバレてしまった。翔悟の住む八王子にプロレスがやって来ることは数年に一度だけ。手には近所のスポーツ店で買った前売りチケットを握っていた。座席表を見せてもらいながらプロレス好きな店主と話をする。それは小学校低学年からプロレスを見続けている翔悟にとって、数年に一度だけの八王子での興行特有の楽しみでもあった。
「めったにこないって、しょっちゅう東京まで観にいってるでしょ!」
なけなしの小遣いをはたき、2か月に一度は中央線に乗り水道橋の後楽園ホールへ繰り出してもいた。そういうときは当日券を買うか、事前にコンビニで購入していた。少しだけ味気なさを感じながら。それでもどこの会場であろうとも、プロレスを観にいくことには喜びしかなかった。
「内申ぎりぎりなんだからちゃんと勉強しなさい!」
 勉強も運動も苦手だし、クラスの誰からもなんとも思われていない翔悟の唯一の人生の拠りどころ。それがプロレスだった。翔悟はプロレスがないと生きていけないし、プロレスがないと死んでしまうと本気で信じていた。プロレスこそが、人生のすべてだった。
「なんで友達と遊ばないであんなもんに夢中になってんの!」
 プロレスに興味がない者と友達になんかなれるはずがなかった。それにクラスの同級生たちが「みんなが興味のない」プロレスを好きな翔悟を、ヘンなやつ扱いしていることは分かっている。しかし翔悟は、そこまで夢中なものもなさそうなのに毎日を平然と生きていける彼らの方がよっぽどヘンだと感じていた。
「うるさいなあ、帰ったらするよ!」
「いますぐしなさい!」
「離してよ!」
 引きとめようとする母の手を振り払うと、勢いあまった翔悟の腕はステンドグラスの置物に当たった。母が通信講座の習作として提出し、これまでで最も評価が高かったと喜んでいた自慢の作品。落下して七色に砕け散る。母も砕けた。
「何やってんの!」
 頬に張り手が飛んできた。たいして痛くはなかったが、中3にもなって母にひっぱたかれている。その状況が情けなく、みるみる顔が赤くなった。足元には砕け散ったステンドグラス。壊されて怒っている母も、壊してしまった自分もみじめだった。
「ちょっと、いっちゃだめよ!本当に高校いけなくなるでしょ!」
どちらかというと、その場のみじめさから逃げ出した。背後から追ってくる母の声が、あっという間に遠のいた。

 翔悟の話を黙って聞いていたおっちゃんは
「……それでガキのくせに現実逃避しちまったってわけか」
 と静かにつぶやきポケットをまさぐると、何枚かの小銭を取り出した。
「とにかく電話しにいくぞ」
「どこにですか?」
「お前のお袋さんにだよ」
 それはわかっていた。
「公衆電話でかけるんですか?」
「そうだよ」
「おっちゃん……スマホ持ってないんですね」
「ああ、なくても不自由しねえし逆に不自由になるからな、あんなもん」
 持っていない理由がどうであれ、自分と同じものを「持っていない」あるいは「欠けている」共通項で、より以上の仲間意識を抱いた。そういえばまだおっちゃんの名前を知らなかった。
「あと、おっちゃんじゃねえ、権田だ、権田大作!」
 あまりにも見た目そのまんまな名前に「それ、リングネームじゃないですよね?」と、つい尋ねてしまいそうになる。さらに、リング屋の名前を知ったことでより込み上げてくるプロレスマニアの優越感。しかしこんな時間のいまさらな電話に、母がどれほど怒るかを想像すると気が重かった。
「いくら持ってんだ?」
「はい?」
 権田はじれったさそうに顔をしかめた。
「財布にいくら入ってんだよ?」
「1200円くらいです」
 帰らせようとしているのだろうか。せっかく抱いた仲間意識が。
「明日は大事な試験なんだろ?ちゃんと受けなきゃダメじゃねえか!」
「えっ、そうなんですか?」
「あん!?」
 翔悟にとって、それは「あっち」の世界の言葉だった。
「もう少しで名古屋だから駅で降りろ。始発の新幹線で帰れ。切符は買ってやる。なんとか試験に間に合うだろ」
 矢継ぎ早な権田のあっちな言葉に、翔悟のこっちは崩壊しそうだった。
「権田さん、そういうのじゃないと思うんです!」
「ワケわかんねえこといってねえで、さあいくぞ!」
 苛立ちを隠さず権田が立ち上がった瞬間、翔悟の視界に信じたくないものが映り込んできた。一瞬で、全身の血液が足先から抜け去っていく感覚に襲われる。短めの金髪、坊主頭にサングラス、襟元から伸びたタトゥーが首まで伸びている者……5人いた。そんな集団が薄笑いを浮かべ、数メートル離れた席から二人を見ていた。そして、いろいろな意味でそれだけは絶対に勘弁してほしい一言が聞こえてきた。

「プロレスってインチキなんだろ」

 翔悟は生まれて初めて、全身に悪寒が走るという陳腐な表現が現実に起こり得ることを知った。一生関わりたくない5つの顔はダメ押しとばかりに「しっかし酷え顔だな!」と権田を罵ると、遠慮容赦なくヒャヒャヒャ!といやらしい声を上げる。それは翔悟にとってやはり非日常……いや、非常識……いや、非道という言葉がピタリと当てはまり、今度は全身がガクガクと震え始めた。

「……あんだぁ、てめえら?」
 それでも権田は微塵の躊躇もなく、片方の脚を引きずりながら集団に近づいていく。

──プロレスってインチキなんだろ

 それはプロレスを愛する翔悟にとって、どこまでもついて回ってくる負のさだめのような呪いの言葉だった。

 ある日の学校の教室。昼休み。翔悟は一人でプロレス雑誌を読んでいた。
「プロレスってインチキなんだろ」
振り返ると普段からあまり関わりたくない連中が、わざとらしく笑いを噛み殺し、翔悟の反応をうかがっていた。誰が言ったのかはわからなかったが、誰もが言ったのと同じだった。しかし、翔悟は言い返せなかった。怖かった。言い返して、もしもケンカが始まってコテンパンにやられてしまったら。そして、そんな無様な姿をクラスの皆に見られてしまったら……彼らは、翔悟が言い返せないことを知っていた。一学期が始まったばかりに、好きなものや将来の夢などを書いた自己紹介の掲示物が教室の後ろにまだ貼られている。

【仲川翔悟……好きなもの・プロレス】

「チビのくせにプロレスだってよ!」続けて静かに湧き上がるククク!といういやらしい声。翔悟は、無視した。そうすれば「こいつ無反応でつまんねえ」とどこかへ消えてしまい、この悪夢のような状況から逃がれられるかもしれない。無言で雑誌に眼を戻すと、さっきよりも大きな声でもう一度聞こえた

「プロレスってインチキなんだろ!」

 今度は振り向かなかった。それでも背後から、侮蔑と嘲りに満ちた空気がドライアイスの煙のように音もなく全身を取り囲んでくる。それは彼らからだけではなく、その光景を好奇の目で眺める教室にいた者全員からも醸し出されていたかもしれない。翔悟はその空気をそれ以上揺さぶらさないよう、誰にも聞こえない声で言い返した。心の声で。

 じゃ、お前らはインチキじゃないっていうのかよ?何でもないくせに自分は何かだと勘違いしやがって!それこそインチキじゃないのかよ!頼むから放っておいてくれ。お前らみたいにクダらない連中と関わる気は一生ないんだから。お願いだから近寄らないでくれ。あっちへいってくれ!お願いだから!お願いだから!お願い……

「オメエらオレに言ってんのかよ」

 我に返ると、権田はすでに集団の正面に立ちはだかっていた。集団の顔から薄笑いが消える。その一帯だけ空気が止まった。パーキングにいる誰もが、これなら巻き込まれることはないであろうと信じている距離を保ち遠巻きに権田たちを眺めている光景。翔悟にとって、あのときの教室と同じだった。
「テメエらなんかにビビるとでも思ったのかクソどもが!」
 翔悟は、もしかすると権田はケンカに自信があるのではなく、頭のネジが1本はずれているのではないかと考えてしまった。どんなに強かろうとも、その後も因縁を引きずることになりそうなヤバい集団を相手に自分の言いたいことをあそこまで言い、平然と立ち向かうなどあり得るのだろうか。いま思うとあのときの自分は、ケンカになった場合それ以降からの状況を最も恐れていたような気がする。遠巻きたちの視線にメンツを刺激されたのか、集団のひとりが血相を変え立ち上がるとテーブルを叩き叫んだ。
「やんのかオラァー!バケモノのインチキ野郎!」
 しかし権田は全く動じず、爬虫類が昆虫を捕獲するときのような速さと的確さで男の胸ぐらを右手で掴むと、特に力んだ様子もなく、頭上高くまで男を持ち上げた。
「インチキでこんなことできるか、おい?」
「ぐっ……ひっ……!」
 血管が破裂しそうなほど真っ赤な顔になった男の脚が、バタバタと宙をもがく。集団は全員がバカのように口を開け、その光景を眺めるしかなかった。どこからか女性の悲鳴が聞こえた。権田が男を突き放すと集団のテーブルに背中から落下し、置かれていたコーヒーの缶が飛び散った。
「プロレスをナメるんじゃねーぞ、おらあ!」
 権田はさらにテーブルを蹴り上げると
「俺はなあ!とっくの昔に死んでんだよ!」
 集団全員に飛びかかろうとする。飛び散った缶と同じ数の男たちは一斉に逃げ出した。

──とっくの昔に死んでんだよ!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?