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It's natural /自然なこと

スクールバスの車窓からは、ユーカリ並木とその奥に広がる牧草地が見える。目を閉じて、夕方の乾いた風を感じる。
オーストラリアでの高校留学、登校初日をサバイブした帰りのバスの中では、同じ学校に通う子たちが大きな声で喋っている。後方には上級生たち。自分の隣に大きなバックパックを横たわらせて、二人用の座席に一人ずつ陣取っている。

私はうるさい奴らとは離れたくて、おとなしく座っている下級生の近く、バス真ん中あたりの座席に一人で座った。話しかけられても困るし、寂しそうに見えるのも嫌なので、目にぐっと力を入れて窓から見える景色に集中する。

ああ、本当に来てしまったんだな。

窓の外が少し見慣れた風景になってきた。この道沿いにある小さな牧場で、私はこれから10ヶ月お世話になるのだ。

一直線に伸びる長い道。両脇にはぽつん、ぽつんと大きな農家の家が並ぶ。 少し先の家のゲート前で、ホストファミリーのお父さんが道に立って手を振っているのが見えた。

2週間ほど前に到着してから、私はこの人のことを Dad(お父さん)と呼んでいる。 Dadと呼んでもいいですか?と聞くと、もちろん!と大きな笑顔を見せた。ヨーロッパやアメリカから来た留学生は、親以上の年齢のホストファミリーのことも友達のように下の名前で呼ぶらしい。さすが個人主義だ。年齢なんて関係ないのだろう。そもそも、自分の親ではない人のことをお父さん、お母さんと呼ぶのは変だと、留学団体のオリエンテーションで一緒になったドイツ人の子が言っていた。

Dadは50代、白人なのだけど日焼けしているので赤黒い肌をしている。馬車レースに出る馬を育てるのが仕事だ。もの静かな Mum (お母さん)とは正反対で、いつもジョークで和ませてくれる。オーストラリア訛りの聞き取りづらい英語で「君はもう Jossie/ジョジーだ」と到着初日から言っていた。 Jossieとは、ジャパニーズ(日本人)でもあるけどオージー(オーストラリア人)でもあるという意味らしい。おそらく Dadの造語だ。

バスが止まる。
「はぁ。たどり着けた」
Thank you と運転手に告げてバスを降りる。

ゲートから母屋まで続く、白く乾いた道。ハエがぶんぶん飛んでいる。

「 No Worries. 心配ない。できなくて当たり前だよ。だって君はこれまでの16年間、日本に住んで、ずっと日本語で生活をしてきたのだから」
オーストラリア訛りの英語で Dadは言う。

できなくて当たり前だよ。It's natural. それは自然なことだと、繰り返し彼は言う。

「英語が分からなかったと言うけど、そりゃそうだよ。もっとリラックスして」

馬はゆっくりと草を食べている。

もっと分かると思っていた。
もっと話せると思っていた。
英語も得意だったし、渡航前の英会話研修も頑張った。
ホームステイの英会話集で勉強して、登校初日のシミュレーションもたくさんしていた。

でも、全然歯が立たなかった。優しい子たちが話しかけてくれたけど、その子たちのグループに入っても、みんなが何を言っているのかが全然分からない。

It's natural. 自然なことだよ。
英語が分からないのは当たり前だよ。君は16年間日本に住んで、ずっと日本語を使って来たのだから。

固く縮こまり「今」ではないどこかに引っかかったままの私をその言葉がゆっくりと「今」に戻してくれるようだった。固く縮こまったものが徐々にほどけて、そこに再び血が通い始めるような感覚。

そういえば私の名前は、Now(今)と同じ音だ。話しかけてきてくれた子たちも「 Now(今)なの? Later(後)じゃなくて??」とジョークを言いながら私の名前をすぐに覚えてくれた。

2匹の犬が足元に駆け寄って来た。焦げ茶色の犬。オーストラリアン・ケルピーという牧羊犬らしい。

「明日朝のジュースにするためのオレンジを採りに行こう」
Dadはそう言って私にバケツを持たせ、裏口のドアから小さな果樹園に向かって歩いて行った。
犬たちが尻尾を振って Dadについて行く。
私も黙ったまま、その後ろをついていく。

夕陽はさっきよりも濃くなり、前を行く Dad、2匹の犬、そして私の長い影が地面に伸びていた。

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