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【パラアスリートと駄菓子屋横さん】車いすの二人が語った#障がいと分断 ダイジェスト記事

2月14日に実施した、「バリアフリーから共生社会を考える【障がいと分断】」のダイジェスト記事です。

パラ陸上元トップアスリートの花岡伸和さんと、掛川で駄菓子屋「横さんち」を営む横山博則さんが、「バリアフリーから共生社会を考える」をテーマに語り合いました。

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障がいをテーマにするからこそ、
・プロの手話通訳者2名(アイキャッチの上側両端のお二人です!)
・学生の手話通訳者3名(高校生も!)
・ノートテイカー4名

の本気の布陣で、「誰も取り残さない」イベントを目指しました。

なんと横さんのマブダチ、EXITりんたろーさんからも声援いただきました!

障がいが起こす分断を、いかに越えていくか。
イベントでの議論は、全く「教科書的」ではない、福祉現場の本気の思いに満ちていました。

イベント内の一番オイシイところを、当日ファシリテーターを務めた、わたくしELPイベント企画担当の杉山が、ダイジェストでお伝えします。
(ほんとに面白いですよ)

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司会を担当いただいた熊崎結萌さん(中央ミスコン2020ファイナリスト)


相互理解をフランクに楽しく

横山さんが、駄菓子屋「横さんち」を始めた理由は、フランクな交流こそが共生社会の鍵だ、と考えたからでした。

横山さん:
小さい頃から、障がいのある人と触れ合って、お互いが助け合って、一緒に楽しんで成長していけたら、きっと楽しい社会を作れるんじゃないか。
だからこそ、従業員はみんな障がい者。駄菓子を選んで食べて、一緒に話すのが、子供たちの為になると思っています

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パラ陸上の花岡さんにとっては、駄菓子の代わりに「スポーツ」が相互理解のツールだといいます。

花岡さん:楽しい時間を一緒に過ごすことこそ、人間がお互いに理解し合うために一番大事。子供達は、自分を楽しませてくれる大人を大好きになるので、車いすで一緒に遊べば、車いすを好きになってくれるんです。

これまでの福祉教育が障がい者を、いかに「かわいそう」で「見ちゃダメ」な存在にしてきたか。
ハッとさせられた言葉でした。

花岡さん:先入観を大人が与えなければ、垣根はないんです。
小学校に行って、「足が動かなくて感覚がないんです」と話すと、子供たちは脚をつねったりしてくるんですよ。「ほんとに分かんないの!?」って。それを見た先生は真っ青になって止めに来ますが、でもそれがいいんです。それこそが、垣根がなくなった瞬間だからです。


人それぞれのバリアから、しなやかさを学ぶ

すべての人にとって「障がい」となったコロナ。しかし花岡さんは、障がい者の方は平気な顔をしていることが多い、と言います。

花岡さん:みんなが不便を感じるような時代こそ、柔らかい強さが必要なんだと思います。もともと不便だった障がい者は、しなやかさを身に着けていたりします。
アスリートは練習のために、重りを付けたり、不便を付け加えますよね。生き方を鍛えるにも、不便さが非常に大事なんじゃないかな。

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横山さんは、障がい者が恥じずに、もっと外に出ることで、健常者の成長にもなる、と言います。

横山さん:私は”不良障がい者”ですから笑。自転車が路上に並んでいたら、車いすでなぎ倒してでも出かけています。
障がい者が街に出るのは、お互いのため。障がい者がみんなの身近になるには、どんどん不良になれと思います。それが地域の一員になるということですから。


”異物”が時間をかけて生むイノベーション

お互いの成長のために、混ざり合うべきだ。昨今段々と進みつつある「インクルーシブ教育」に重なる部分があります。

花岡さん:便宜上、僕は自分のこと異物だと思ってるんですよ。異物が入ることで、変革が起きていくわけですね。
そして、障がい者を守るのは、障がい者だけのためではないです。それが世間のためになるべきだと思うんです。共生社会は少数派のためにあるのではありません。社会全体の進化のためにあるんです。

LGBTQ、外国人、そして障がい者。どの分断も、少数派が可哀そうだから解決すべきだ、と考えられがちです。しかし花岡さんは、異物であることは社会のためになる、と確信しているのです。

横山さん:私は中学生の女の子の友達がいます。重度の障害があって、車いすに乗っている。もうすぐ高校生になるけれど、彼女が通える設備の整った高校は少ない。彼女は、「ありのままの姿で、みんなの中で生きたい。理不尽な思いをせずに、みんなと一緒に高校生活を満喫したい。」と言っています。
変えるのには本当に時間がかかる。でもできることはすべてしてあげたい。彼女の当然の権利を、私は主張していきます。それしか変える方法はないのです。

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小さな友達の切実な思いを背負って、主張する。異物として声を張り上げる。変化に時間が掛かることを覚悟しているのは、花岡さんも同じです。

花岡さん:自分がやってるの結果が出るのは、自分が死んだ後ぐらいですよね。50年後100年後に、この世の中が心で繋がって、力を合わせて生きていけるようになってほしい。

「時間はかかるけど、やって行こうよ」という前向きなメッセージには、お2人の経験と覚悟の重みがありました。


障がい者というラベルに救われた

イベントにはもう一人のゲストが登場します。
都築政憲さん。学生団体おりがみで福祉系のプロジェクトリーダーを務める、吃音障がいのある学生です。(ELP代表の弟さんです)

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彼にとって「障がい者認定」を受けたことは、大きな救いだったと言います。

都築くん:自分が他の人と違うと気づいたのは、小学5年生になってから。それが吃音という障がいだと分かったのは中学1年生の頃でした。
障がい者と認定されるまでは、「どうして自分は普通の人ができていることができないのか」と自分を責め続けていました。
吃音という言葉は、僕にとって魔法でした。自分のせいじゃなかったんだと思えたんです。

障がい者と呼ばれることが救い。これは意外だと思う人も多いかもしれません。
様々なケースがあるはずですが、訳も分からず自分を責めていた苦しみを考えれば、認定されることは救いだったのです。

都築くん:気を使って、「吃音だなんて見えないよ」と言ってくれる人もいます。その言葉は僕にとって、自分の今までの苦労を否定するように聞こえてしまう。
健常者だけでなく、車椅子ユーザーの方にも「吃音なんて障がいに入らない。克服してる人もいる」と言われてしまったことがありました。それはその人の苦労と頑張りを消して、僕の苦しみもなかったことにする言葉に聞こえました。
僕は吃音で、それも含めて自分だと認めてもらいたいんです。

障がい者の間にも分断がある。どれくらい重度か。障がいの見えやすさ/見えにくさ。それらで区別しあってしまう。
でも、都築くんが「話すのが苦手」なのは、誰かが「論理的に考えるのが苦手」と同じだと言います。
苦手を無かったことにしないで、無理に「克服」させないで、共存することを認めてあげる社会のほうが、素敵なんじゃないか、と。


支援/非支援ではない、認める合える繋がり

都築くん:小・中学生のころ、吃音を知らないまま苦しんでいた僕は、学級委員を立候補したり、勉強が得意なんだと嘘をついたり、空回りして無理をして、友達が居ませんでした。
でもその時と、今の自分は全然違う。今すごい自然体なんですよ。
それは、自分を必要としてくれる仲間と出会えたからです。僕は特別支援学校の子達と触れ合う”パラコネクト”という企画をしています。その子たちは本当に僕を必要としてくれるし、ありのままの自分を好きでいてくれる。そこに吃音は関係ないんです。
支援者が被支援者に何かしてあげようっていう関係ではなくて、本当にお互いを求めあえる友達なんです。

自分はそのままでいいんだと、お互いに認める合える繋がりがあること。それはもう、幸福のために誰もが必要としているものではないでしょうか。
花岡さんと横山さんが、世界の不条理にコツコツ立ち向かっているのとは少し違う。「お互いの幸せのために、一緒に居られてくれてよかった」と素直に抱きしめられる真っすぐさ。新時代の若い力なのかもしれません。


花岡さんは、海外での競技経験を通して「日本人は自分が何者かちゃんと考えていない」と言われたことがあるそうです。

花岡さん:日本人って分けたがる。カテゴライズすると、安心なんですよ。自分は車いすで、大阪出身で、〇〇大卒で、と。
でも「あなた自身は何者なんですか?」と言われると答えられない。周りと比較してしか自分を語れない。「普通」って言葉を使って、自分を多数派に置いて、安心したがる。

ごちゃまぜの、みんながそれぞれ幸せになれる社会で、あなた自身が何者なのかを問われる。
そのとき見栄を張らずに、自分のままで自分を見せることができますか。
それがきっと、幸せなんじゃないでしょうか。


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読んでいただいてありがとうございます。
障がいが起こす分断を、いかに越えていくか。
福祉の第一線かつ当事者であるゲストたちの、教科書的でない、真摯な言葉たちに、ハッとしていただけたら嬉しいです。

今日生まれた、心からの議論と、それをすべての人に伝えようとする情熱が、より多くの人に届きますように。
価値のあるものだと思っていただけたら、ぜひとも、広げていただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

文責:杉山大樹
ファシリテーター/編集者

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