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暗い森の少女 第三章 ③ 人形の家

人形の家



「ほら、こっち」
青いサマードレスを着た愛子を上の叔父が呼んだ。
愛子がこの家に来て1ヶ月ほど過ぎたが、あの痩せた赤ん坊は驚くほど早く成長していった。祖母がつきっきりで世話を焼き、笑い話しかけ、ミルクを飲ませていくうちに、なんの感情も浮かんでいないガラスのようだった愛子の目に表情が生まれてきたのだ。
人形のようにされるがままだった愛子は、祖母を見ると笑い、祖母が目の前から消えると泣くようになる。
こけた頬に丸みが出た頃、ミルクや果汁しか飲めなかったのが、徐々に豆腐やゆでてつぶした芋なども食べれるようになってきた。
赤ん坊のまま心と体の成長を止めていた愛子は、早送りのビデオを見るように実年齢の3歳に近づいてく。
まだまだ細く身長も低い。長く寝たきりの生活を強いられていたためうまく歩けないようだが、花衣のお古の歩行器を上の叔父が出してきて、愛子はそれに乗って家中をかけまわるようになっていた。
がらがらと耳障りな音に花衣は慣れなかったが、祖母は目を細めている。
下の叔父は愛子がやって来た日に帰ってきたが、その後は戻ってこない。
漁師の仕事をするにはこの村は港から遠く便が悪いので、港の近くのアパートで恋人と同棲をしていると耳にした。
母はもともと不在がちだったが、愛子がやってきてからはほとんど家に帰らなくなってしまったが、そのことを祖母は気にしていないようであったし、花衣も諦めている。
その代わりというように、上の叔父が最近よく戻ってくるようになった。
相変わらむっつりとして何を考えているか分からない上の叔父から、いつ暴言を吐かれるかとビクビクしていたが、どうやら上の叔父は花衣への関心はなくなったらしい。
今日も愛子へのプレゼントを抱えてやってきたのだ。
「花衣のお下がりばかりじゃなんだから」
ぼそぼそと聞き取りづらい話し方は変わらなかったが、そこに妙に浮ついた喜びの色がにじんでいることを花衣は聞き漏らさなかった。
「まあまあ。こんなにあってもすぐに大きくなるわよ、愛子は」
祖母はあきれた風に、だがこちらも嬉しそうに返す。
実際、今愛子が来ているサマードレスは花衣が来ていたものだ。
こだわりのある母が選んだ服は丁寧にクリーニングされて大切に保管されていた。
歩行器やいくつものおもちゃは、祖父が花衣に買ってくれたものだ。
確かにもう花衣が着たり使ったりすることはないものだったが、祖母が当たり前のように愛子に使わせていることに、花衣はざらついた苛立ちを感じていた。
上の叔父は愛子を風呂に入れると連れて行き、祖母は広たままになっているプレゼントを片付けている。
薄っぺらな生地に毒々しい色の模様がある服は趣味が悪く感じたし、ビニール製の人形にはマンガの登場人物のように大きく目が描かれていて、箱の中で癖がついてしまった髪が蛍光灯の下で鈍く光る。
花衣が着る服や文房具、大切にしている陶器の肌の人形やぬいぐるみなど買ってくるのは母であり、その趣味はこの農村では「気取っている」、「派手」などと陰口の対象であったが、花衣は好きだった。
去年の誕生日、ビニール製の人形は周りの女の子はみんな持っていたので、祖母が母に花衣にも買って与えるように話していたが、
「そんな着せ替え人形、本当に欲しいの?」
話し続ける祖母を無視して、母はまっすぐ花衣を見つめてきた。
あまり母に話しかけられたことがない花衣は、びくびくして祖母の顔色を伺ってしまう。
「お前は欲しいの?」
重ねて聞かれ、花衣はうつむいた。
だが、首を横に振る。欲しいとは思えなかったのだ。
「なんなら欲しいの」
思いがけない母の言葉に花衣はぱっと顔をあげた。
「人形なら……あの、小公女に出てくるようなものが欲しい」
普段ものをねだったことのない娘の言葉に、母が皮肉そうに唇を歪める。
「着せ替え人形は同じでもビスクドールか。それでいいのね?」
今度こそ花衣は首を縦に振った。
それから数日後の誕生日当日、母が持って帰ってきたのは、白い陶器の肌に水色のガラスの目を持った50センチくらいの人形であったのだ。
波打つ金髪は背中まであり、緑色の別珍のドレスとおそろいの髪飾りをつけている。
小公女に出てきた人形がもっていた量の服はなかったが、どれも華麗でいながら品がある数着は一目で気に入った。
「中学に上がれば、洋裁も習うのよ。着替えが欲しかったら自分で作ることを覚えなさい」
母はそれだけ言うと自室に戻る。
「なんだか気味が悪い人形ねぇ」
確かに他の女の子が持っている人形のような笑顔もなく、派手なピンクや黄色の服を着ていないその人形は神秘的に見えたから、気味悪いと感じるひともいるかもしれない。
「そんな人形より、やっぱりみんなが持っている人形のほうが……」
グチグチ話し続ける祖母の言葉を上の空で聞きながら、花衣は人形を抱きしめた。
風呂場から愛子の大きな笑い声が聞こえてきて、花衣ははっとした。
祖母が気味悪がると思っている人形を愛子に与えるとは思わなかったが、この流行の人形を上の叔父が買ったきたことで花衣の人形は守られる。
ほっと息を吐く。
風呂から上がった愛子は、さっそく叔父の買ってきたパジャマを着せて貰っていた。
黄色地に濃いピンクの花模様が散るパジャマは、あまり愛子に似合ってないように思う。
「新しい服ね-、嬉しいねー」
祖母はにこにこしている。
「似合ってるな」
タオルで髪をふきながら叔父も戻ってきた。
「姉貴が選んだ服は子供っぽさがないんだよ。上品だ、ものが違うんだっていってもさ」
ぐちぐちと母の陰口を続ける叔父を気にしながら、祖母はちらりと花衣の方を見、困ったように笑う。
「仕方ないのよ。この子は葛木の家からもうるさく言われていて、お嬢さんみたいな格好しかできないから」
花衣の心はぴくりとも動かない。
愛子がやってきてから、祖母は花衣のことを邪険に扱うようになっていた。
本ばかり読む、村に友達が少ない、気取っている、やっぱりお前は葛木の家に預けてしまおうか。
「葛木本家の跡取り」である花衣のことを大切にしていた祖母である。
「葛木本家から金を引き出す装置」と思っていたとしても。
はじめの数日は祖母の言葉にいちいち傷ついていた花衣だったが、もう慣れてしまっていたし、ある確信が生まれようとしていた。
(愛子ちゃんを育てる代償を貰っているのかもしれない)
あの森の中、倒れた木の上によりそって座っていたとき、瀬尾はそう言ったのだ。
(村のひとからのいじめから庇うとか。あとはお金とか)
(お金)
(親戚の家で育てられないのは、なにか理由があるはずなんだよ。それを代わってくれている葛木さんのおばあさんに、お礼というか、口止めというか)
瀬尾は悩ましげに眉をひそめる。
(葛木さんが本家に行ってしまったら、もう養育費は払われなくなるんだろうし、別の収入源が欲しかったと思う)
そう言ってか、労るように花衣の手に自分の手を重ねた。
(ごめんね、おばあさんのことを悪く言って)
(いいの、別に。もう)
どうでもいいの、までは口にしなかったが、瀬尾は気づいていたかも知れない。
しかし、もう愛子がどの家の親戚筋の子供で、その母親は軽犯罪を繰り返していた人物であるということはすでに村人に知られている。
これ以上隠さなくてはならないことはなんなんだろうか。
もちろん、瀬尾と花衣の子供の想像で、大人にとって意味などないのかもしれないが、妙に引っかかるのは確かだ。
(知らないでいる方が幸せなこともあるしね)
瀬尾が言う。
(知らずにいたらどれだけよかったか)
花衣の奥深いところから、座敷牢の女が毒をにじませた声で囁いてくる。
(知ったら、おしまい。もう、落ちてくるだけ)
どこに落ちるというのか。
汚され続けた体に、陵辱の末得体のしれないものを心に住まわせるようになった花衣に、ここより底の地獄が待っているというのか。
上の叔父が愛子を抱き上げ、高い高いをしている。
きゃっと明るい笑い声をたてる愛子を花衣はぼんやり見ていた。
(そのまま床にたたきつけられればいいのに)
花衣の本心か、座敷牢の女か、それとも他の鏡の中の住人の声か。
意識の底に暗い情念が生まれていった。

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