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暗い森の少女 第三章 ⑦ 誇りと狂気の狭間で

誇りと狂気の狭間で


夏木が敷いてくれた布団の中で、花衣は眠れないままでいた。
生まれてすぐに花衣を祖母に預けて母は働き出したらしい。
祖父に似て、あまり村の古い慣習に囚われない性格で、それは服装や趣味、交友関係に表れていた。
長い髪にゆるいパーマをかけ、出かける用がない時でも薄化粧をし、村の女が着ないような色鮮やかなワンピース、またはデザインの凝ったブラウスに細身のジーパンを組み合わせた服装は、村の因習に染まらないと決意しているようでもある。
家にいるときは本を読み、休みのときは友人たちと旅行にいったり、喫茶店で何時間も語り合ったり、村にいる「普通の母親」が家を守り質素に暮らしているのとはまったく違う自由を満喫している。
葛木本家の当主が、花衣を養子に迎えたいと言ったときに、祖父と一緒に一番反対したのは母であったそうだ。
しかし、幼い頃から実の親の情を知らずに育ち、またこの村でも「よそ者」とさげすまれていた祖母が、ただひとつ、誇れるものとして突然登場した葛木の古い血筋の末裔という栄光を捨てきれず、半狂乱になってしまったものを哀れに思ったのか、花衣から見たら曾祖父の後妻である曾祖母の養子となり、自分と花衣が葛木の姓を名乗ることになった。
大人から詳しく聞いたわけではないが、花衣を子供とあなどって、祖母や叔父たちはうかつにそう言う話をよくすることがあったのだ。
子供は大人が思っているより、大人の会話をよく聞いているのである。
(どうして、私だったのかしら)
いつからか花衣はそう疑問に思っていた。
曾祖父は確かに葛木本家の総領息子であっただろう。なぜか谷を飛び出してしまったが。
そして、跡取りがいなくなった葛木家は、当時の主である曾祖父の父が谷の外で囲っていた妾の息子を呼び寄せ、谷の娘をあてがって急遽跡を継がせたのだ。
その子供が、現当主である。
葛木家は男子が家を相続してきたのに、なぜ、花衣を跡取りとして養子に欲しがったのか。多額の養育費まで払ってまでだ。
(上のおじさんは松下の家を継ぐにしても、下のおじさんはそうじゃない)
しんねりむっつりとした上の叔父のことを、祖母は「うちの跡取り」とたてていた。そして、下の叔父のことは手放しで可愛がっていた。
大事な男子を葛木家にやるのが惜しかったのだろうか?
だが、あれほどにも葛木家に執着している祖母である。
今も花衣が祖母の手で養育されているように、叔父が養子になったからといって、いきなり取り上げられるわけでもないだろう。
母は跡取りにはなれなかった。
(私生児を産んだ「ふしだらな娘」だから)
しかし、その娘の花衣はなぜ受け入れられたのか。
母はだめで叔父たちもだめであっても、当主夫妻にも子供がいて、谷の他の家庭にも子供はいるはずなのだ。
今は谷を出て行っているとしても。
(子供がいつかない谷)
当主夫妻は祖母と同い年くらいに見えたし、谷に住んでいるひともみなその年頃か、それより年配に見えた。宴会で子供の話が出ることもあったが、10年近い葛木家との付き合いで、一度も見たこともないのだ。
谷に新しい世代がいるとすれば、母や叔父たちと同じくらいであり、その子供たちもそろそろ子供を授かってもおかしくはない年頃だろう。
それなのに、なぜ花衣ではいけなかったのか。
「ふしだらな娘」のその娘である花衣もまた、大人たちの歪んだ性癖の生け贄になり、純潔を失っていると知ったら跡取りの座は奪われるであろうが、そもそもなぜ、自分が選ばれたのか。
村のことも葛木家のことも、どうでもいいと捨て置いている今すぐ母に尋ねたかった。
(どうして、「娘」の私なの?)
そして、こうも聞きたかった。
(私に人形をくれたのは、おかあさんじゃないの?)
確かに花衣の記憶は混濁し、混乱の極みにいつもあったが、去年の誕生日に母がプレゼントしてくれたものが、実は今年、夏木によって贈られたものだと言うような記憶の齟齬はこれまでなかったものである。
母と夏木はまったく似てない。
徹底した個人主義で、自身の美意識にあったものしかそばに置かない母と、瀬尾家で明るく働き、村人からも受け入れられている夏木。
(でも今日の夏木さんはいつもと違った)
いつもの朗らかさに潜んでいた、未だ少女のような潔癖さを花衣は知った。
そして、その根底にあるのは、「古い価値観に縛られたくない」という強い憤りであるように感じる。
それは、直接母とは話したこともないが、母が村に、家族に抱いている怒りにも似ていた。
眠れないと思っていたが、やっと花衣に眠りが忍び寄ってくる。
浅い夢を見ていた。
そこはどこなのだろう。
座敷の真ん中に白い夜具が敷いてある。
四隅に老いてあるろうそくがゆらゆらと夜具に影を落とす。
それは若い娘のようであった。
娘は若い、いや、幼いと言ってもいい年頃に見える。
白い襦袢では寒いのか、娘は小さく震えているようだ。
(違う)
夢の中で風景を見つめている花衣の奥底から、座敷牢の女がそっと囁く。
(まだ11歳……怖いのよ)
不思議に座敷牢の女の声も怯えているように感じた。
確かに、夢の中の娘は花衣と同じ年くらいだ。
ろうそくのあかりがあるとはいえ、暗い部屋にひとり残されては不安も大きいだろう。
娘の顔は血の気のない白さで、これから訪れるなにかを待って、恐れていた。
(なにを待っているの)
夢の中というのに強い眩暈がする。
傍観者であったはずが、いつしか花衣は娘の体に入り込んでしまっていたようだ。
(怖い)
娘の感じている恐怖が、花衣の肌を粟立たさせる。いや、これは娘の肌か。
父から言われた、「誉れのあること」といえ、この後行われる未知の行為はとても娘に耐えられるとは思えなかった。
母や側仕えの女から心得は聞いていたが、「なにもかも殿のなさるままに、けして取り乱したりはしないように」という言葉になんの救いはない。
「殿」の噂も娘が怯える要因でもある。
数々の輝かしい戦歴は、実は古から伝わった魔術によるものだというのだ。
だがそのすさまじい魔力を受け継ぐ子をなせないのが長い間悩みの種だった。
正妻の嘆きをよそに、幾人もの側室を持ったが、子は出来ても肝心の魔力を継いでない。
殿ももう40を越えて、いつその生を終えるか分からないのだ。
そんなとき、いきなり白羽の矢が当たったのが娘であった。
いつも城内では爪弾きにされていた家紋であったが、その奇妙な噂が殿の興味を引いたのだ。
(その家の娘を抱けば願いが叶う)
誰が言い出したのものなのか。
くだらない噂話だ。
いや、それは娘の先祖も、また父も密かに人づてに流しているのだ。
それはまことしやかに、尾ひれをつけて。
(そして、高い値で娘は売られる)
ふと、娘の内部でおののいていた花衣の中から、さらに座敷牢の女が現れて言った。
(葛木の女はそうやって娼婦のように売られていく)
足音が近づいてきて、娘も花衣も、開かれようとする襖を見つめる。
座敷牢の女はもう何も語らず、そっと花衣の意識の下に潜り込み消えていった。

「なんだか顔色が悪いよ」
外で会うには寒さが増した土曜日の午後、瀬尾と花衣はいつものように森の中にいた。
紺色のダッフルコートに、水色に様々な色のストライプが細く入っているマフラーをした瀬尾は、心配げに見つめてくる。
森の木々は常緑樹で、空を見ることも出来なかったが、厚い暗い色をした雲は今にも雪を降らしそうであったのを思い出す。
確かに少しだけ風邪気味で、いつもより体が重くぼんやりしていたが、瀬尾とふたりきりになれる時間を花衣はなくしたくなかった。
「大丈夫」
「本当に?」
少しだけためらうそぶりを見せて、瀬尾はそっと花衣の額に触れてくる。
いつもは、断りもなく花衣に触れてくる人間に強い苛立ちを感じていたが、瀬尾に触れられることに嫌悪感はなく、むしろ落ち着くことができた。
「うん」
瀬尾は困ったように笑う。
「これじゃあ分からないね。大人はみんなこうするよね? どうして熱があるかわかるんだろう」
「そうだね」
花衣も笑った。
それは冬が訪れる前、ひとときの灯火のような時間であったのかもしれない。
花衣の家では、もうすっかり愛子一色の暮らしになっていた。
葛木本家の手前もあるため、あからさまに花衣を世話を放棄することはなかったが、ことあるごとに祖母や叔父から、
「こんなに小さな子供がいるんだから、お前ももっと愛子を可愛がるべきだ」
と叱咤される。
花衣の持ち物は、愛子が気に入れば取り上げられた。
それは文房具であったり、ハンカチであったり、特に思い入れもないものが多かったが、母の友達から譲られた豪華な装丁の童話集をねだられ、しかもそれを愛子はしゃぶってちぎる遊び道具にしたことは許しがたく、祖母に激しく抗議をしたのだ。
「まあ」
祖母は大きくため息をついた。
「小さい子供がいろんな物に興味をもって、破いたり壊すことは当たり前なのよ」
花衣が必死にかき集めている本の欠片を取り上げ、祖母はゴミ箱に捨てた。
「もういつまでも子供じゃないんだから……絵本を読むのはみっともないからやめなさい」
そして、花衣の部屋にあった本はみな廃品回収に出されたのだ。
一晩中、花衣は泣いた、泣いても泣いても、涙が途切れることはなかった。
そのことをそれとなく瀬尾に伝えると、自分が体験したことのようにショックを受けたようだ。
「……どれだけ葛木さんが本を大切にしているか、おばあさんには分からないのか」
絞り出すような声は、怒りに震えているようだった。
「いつだってそうだ、これは大人が買ってやったものだから、子供には所有権がないんだと言う。そもそも、僕たちのことをひとりの人間だと思ってもいないんだろう」
「瀬尾くん」
「いくつになったら、ひとりで生きていけるんだろうね? 僕たちは大人に飼われている犬でもなんでもないはずだ」
瀬尾は悲痛に顔を歪ませる。
花衣はまだ、瀬尾の背負っているものについては聞いてなかった。
花衣は異分子として村人や家族から扱われて、いつしか胸の底に眠る座敷牢の女たちを目覚めさせてしまったが、その不気味な影は花衣を怯えさせもしたが、不思議な安心感も与えてくれる。
そして、他の3人のことはまだよく分かっていないが、座敷牢の女は自分の前世なのだと確信していた。
古い血筋の葛木家に生まれたが、一族の掟をやぶった女は殺されて、その魂が末裔の花衣に宿ったのだろう。
花衣は、瀬尾にひた隠しにしていたことを、ついに話した。
花衣の中に眠る女、それが花衣の窮地に現れてることで今も花衣の正気はかろうじて守られていること、女の過去らしい座敷牢での暴行の記憶。
気が狂っていると思われるかもしれない。
とうとう瀬尾まで失うことになるかもしれない。
しかし、誰にも言えない深い痛みに苦しむ瀬尾に寄りそうには、これしか方法を思いつかなかったのだ。
「葛木さん」
瀬尾は呆然として花衣を見る。
やはり、瀬尾はもう自分を受け入れることはないのだろう。
なげやりな気持ちになって花衣は言った。
「おかしいよね、こんな話。でも、座敷牢の女はいるのよ、ここに」
胸を叩く。
「その写真が本家にあった。格子が挟まった窓がある奥の部屋に。あの部屋で女は殺されてしまったの」
「違うんだ」
瀬尾は思わずといった様子で花衣の肩を掴んだ。
思いがけない強さに、痛みを感じた。
「確かに、その女は存在していた」
真剣なまなざしが花衣を貫く。
「でも、生まれ変わりなんてあり得ないんだ。……その女は、葛木さんが生まれたあとに、この世を去ったたんだ。あの座敷では、亡くなっていない」
瀬尾の告白を、花衣はしばらく理解出来ずにいた。
花衣の心の奥にある鏡の部屋で、座敷牢の女が苦しそうにもだえている。
そのかたわらに、無表情な少年が立ち、女を見下ろしている。
その目の色は、瀬尾と同じ痛ましさがにじんでいた。

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