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暗い森の少女 第5章 ④ 忍びやかな孵化の音

忍びやかな孵化の音


花衣は、深い闇に飲み込まれそうになっていた。
葛木本家の当主夫妻や、谷の一族に、花衣は優しくされたことしかない。
谷に行けば、それは大切に、たったひつりの跡取りとしてこれ以上なく可愛がられていたし、少なくとも谷には、普段暮らしている村と違い、花衣を異分子として見る人などいないと思っていたのだ。
(女には使い道がある)
シワだらけの、男とも女とも判別できない老人の言葉を思い出す。
花衣が普通の11歳の少女であるなら、葛木家の娘を求める金持ちに妻に、売られていたのだろう。
しかし、花衣は幼い頃から蔑まれながら淫らな欲望の糧にされ、すでに純潔は失われている

それでも、花衣には『使い道』があるのだ。
谷の男と交わり、異能者を産むという道具として。
(花衣)
花衣が深い物思いに沈んでいると、『花衣』が心配げに眉をよせて見つめている。やはり、その仕草は夏木に似ていた。
もう内側から発光することはなかったが、『花衣』の周囲にはかすかな輝きが集まって、虹を形成している。
その姿は、自分と瓜二つであるのに、清らかで神々しくさえあった。
花衣が汚辱にまみれている分、『花衣』は尚更に潔癖に見える。
(花衣、私は長い間ここにはいられないの)
『花衣』は言う。
(私はおかあさんが作り出した幻影にすぎない。おかあさんの幻想世界から離れていることは出来ないの)
(おかあさん)
花衣はその言葉に我を取り戻した。
(私はおかあさんに会いたい。会いたいのよ、お願い、私もおかあさんのいる場所に連れて行って)
(花衣……それは無理なのよ。おかあさんは、死んでしまっているのだから)
(幽霊でもなんでもいい。おかあさんに会いたい)
花衣の目から涙がこぼれる。もう泣いて泣き尽くして、二度と涙など出ないと思っていたが、それでも熱い水滴は、頬を流れて顎に落ちていく。
(おかあさんは、あなたを守るために、ずっと行方知れずになっていたおとうさんのもとに飛んでいった。言ったように、あなたの中にいる座敷牢の女という、呪詛の塊に飲み込まれそうになったから、花衣の側にはいられなかった。おとうさんは、働きながらおかあさんの行方を追っていた。疲れていたんだと思う。その隙をついて、おかあさんはおとうさんの中に入り込んだ。……取り憑いたっていうのかしらね)
『花衣』は淡々と話した。
(代々、葛木の能力者以外の男子は、恐ろしいほど勘が鈍いらしいの……おかあさんが取り込まれそうになった座敷牢の女という名前の集合体から得た知識だけど……、おとうさんはおかあさんが憑依してもまったく気がつかなかったのね。おかあさんは考えて、おとうさんの夢の世界に侵入して、そこでおとうさんと、おかあさん、花衣という三人で暮らしだした)
(でも、私は、ここにいるわ)
(そう。その花衣は私。『花衣』なの)
『花衣』は苦いものを口にしたように表情をゆがめる。
(私は、おかあさんが作り出した『花衣』なの。本当のあなたじゃない。おとうさんと結婚をして生まれ、普通に育っただろう『花衣』をイメージして作られた、私は人形のようなもの)
(おかあさんが作った私……)
(おかあさんは、おとうさんの夢の世界をどんどん浸食していった。おとうさんは、夢の世界でいつもおかあさんと花衣という家族がいる。それはおとうさんが願っていたことにとてもよく似ていたから、おとうさんはそれがおかあさんの作り出した幻影とは気がつかなかった。おかあさんは、すぐにでも花衣、あなたを救い出して欲しかったけれど、おとうさんは夢の世界に満足してしまい、自分の妹から本当に娘がいると聞かされたときも、一瞬引き取ることを躊躇してしまった……)
『花衣』はため息をつく。
(おかあさんは焦れた。座敷牢の女に取り込まれなうよう距離を取ってあなたの様子を見に行くこともあった。そこには、おとうさんの夢の世界で幸せに暮らしている『花衣』とは、正反対に辛く苦しい生活を強いられているあなたがいた。どうしても助け出したい、とあなたのまわりを浮遊しているうちに、小さく弱々しいものが、花衣の中からおかあさんに近寄ってきたの)
(なんなの……?)
(この子よ)
『花衣』は自分の足元で、眠っている少年を指した。
(この子は、私たちの兄、であったもの)
(兄?)
(さっきあなたは、私のことを、おかあさんが生めなかった子供かと思ったでしょう? この子がそうよ。花衣が生まれる2年前、おかあさんの中に宿った命)
(え)
(なにを聞いているかは想像がつくけれど、おかあさんは、村の男に襲われて、この子を妊娠したの。……不幸な事件だったけれど、おかあさんはこの子を産もうとしたわ。だけど、流産してしまったの……そして、その子は葛木の能力者だった)
(え……!?)
いつも無愛想にほとんど喋ることもない、今は目を閉じ胎児のように丸まった少年を見る。
いつか思ったことがった。
慕わしい誰かに似ていると。
それは瀬尾であった。瀬尾が成長したらこんなふうになるのではないかというほど、少年と瀬尾は似ていた。
不思議な縁であったが、瀬尾と少年も葛木の血を引いているのだから、似ていてもおかしくなかったのだ。
(この子は、流れてしまったあとも、魂はずっとおかあさんの中にいたのね。そして、あなたが生まれたとき、あなたの中に入って一緒に生まれてしまったみたい。ずっとあなたの中で眠っていたけれど、あなたが暴力を振るわれるようになってから、その痛みを、自分が受けていたの。花衣、あなたは暴力を受ける度、すぐに記憶が曖昧になっていたでしょう? ……それは、この子があなたの痛みを引き受けていたから。ずっとこの子は、小さな胎児のままで、訳も分からないまま、同じ母から生まれたあなたを守り続けていたのよ)
電撃が体を貫いたような衝撃を受ける。
(じゃあ、この人は……)
(本当にあなたのおにいさん。能力を持っていたから、座敷牢の女にも手が出せなかった。でも、魂だけとはいえ、実の母が近くにいたことに気がついて、思わずあなたの体から抜け出した。おかあさんにも、それが自分が流産した子供とわかったから、一端、おとうさんの中に出来ていた夢の世界に連れてきたの。……おとうさんには、もともと、流産した子供がいることを伝えていたし、どれだけ生々しくても夢なんだもの。この子は、私の兄として、夢の世界で一緒に暮らすようになったの)
(でも、この人は私の中にいたわ、ずっと、鏡の部屋に)
(私、『花衣』はおかあさんの作った幻にすぎないから、普段はおかあさんから離れることは出来ない。だけどこの子はそうじゃないし、生まれてからずっと一緒にいたあなたを無意識に求めるようで、ほとんどをあなたの中……鏡の部屋で過ごしていたわ。こちらの夢の世界では、学校に行っている、勉強で部屋にこもっていると、認識の修正が行われていたけど。……おかあさんにとっては、辛いことだったと思うけど、お兄さんの記憶から、花衣の状態が知れたし、人より強い魂をもっていたとしても、能力者であるこの子を止めることはできなかった)
(……)
(一回だけ、この子を通して、私とあなた、入れ替わったことがある)
花衣は息を飲んだ。
いくら得体のしれない4人を心に住まわせているとしても、それ以外の存在、それが片割れのような『花衣』であっても、心を手放した記憶がなかった。
(覚えていない? 口ひげのあるお父さんと、長い髪をゆるく束ねたお母さん。毎朝、お父さんはぶきっちょにオムレツを作る。おかあさんは『花衣』にだけココアをいれてくれるわ。この子……兄さんは、ブラックコーヒーにしてよって言うけど、ミルクと砂糖が入ってないコーヒーは飲めないの)
(あ……)
脳裏に、うっすらと、影もないほど光に満ちた部屋の記憶がある。
優しい父の目差し、花衣を抱きしめる母の腕のぬくもり。
(この子、兄さんの能力を使えば、少しの間なら私たちは入れ替わることができると気がついたの。そして、私はあなたを迎えに来たのよ)
(迎え……)
(そう、現実世界でも、おとうさんはあなたと暮らす準備をしている。この村にも、松下の家族もすてて、花衣は『本当にいた場所』に帰らないといけないの。……そこには、もう亡くなっているお母さんとこの子はいないけれど)
悲しい目で『花衣』は言う。
母の想念が生み出した架空の娘『花衣』は、この3年間、父の夢の世界で、花衣の居場所を作るために母と兄の魂と一緒に、暮らしていたのだろう。
(あなたは、どうなるの?)
(え?)
花衣の言葉を『花衣』は予想していなかったのか、驚いたように目を見開く。
(私がおとうさんに引き取られたら、おとうさんの夢の世界にいるあなたや。おかあさんはどうなるの?)
(消えるわ)
『花衣』があっさり言う。
(おかあさんは、あなたがお父さんに引き取られて幸せになることが何よりの願いだし、兄さんを連れて、違う世界に行くんでしょうね)
(違う世界?)
(天国とでも言うのかな)
『花衣』の声には、わずかな悲しみがあった。母と兄、そして父との間に、花衣の知らない家族の絆が確かにあったのだと気がつく。
(あなたは天国にはいかないの)
(私はお母さんの作った花衣のかわりだから……)
この汚れをしらないまばゆい『花衣』に、妬みに似た黒い感情があったが、それでもここまで花衣のことを知り、花衣の悲しみに寄りそった少女がただ消えてしまうという現実は、苦く脆い味がするようだ。
(だから、私は最後の仕上げにここに来た)
『花衣』は、挑むような目で、花衣の心の中にある鏡の部屋を見据える。
(座敷牢の女と、あのしわくちゃなお化けみたいな奴、そして、愛子……全部、葛木家の『負の遺産』よ)
(え)
(本当はあのしわだらけの奴のことだけはよく分からないんだけど……でも、間違いなく、葛木の女の呪いのひとつだわ)
『花衣』は花衣に向き直り、ひたむきな目で訴えた。
(花衣、あなたがお父さんのもとで幸せに生きるなら、この鏡の部屋にいる全てを捨てて、壊して行かなくちゃいけないの。怨霊を抱えたまま、この先生きていくことは出来ないわ……)
(……)
(戦うのよ)
『花衣』の宣誓のような強い言葉に花衣は怯える。
(戦う……?)
(今は私がこの世界であなたと話すために力をわけてくれている兄さんは、谷の人間も知らない能力者よ。ここ100年ほどは、どれほど近親婚を繰り返しても、生まれなかったとても強い能力者。本人に自覚はないけれど、この力を使えば、あなたは葛木の呪いから逃げられるはず)
(でも)
(谷に行きましょう)
そういう『花衣』の体は、現れた時のように発光し始め。輪郭が淡くなっていった。
(谷に……兄さんに聞いて……隠されているものが……)
水風船が割れるように、光の玉になった『花衣』は消えてしまう。
気がつけば、花衣は一人、瀬尾の曾祖母の部屋にいた。
肖像画に描かれたふくよかな頬に浮かんだ微笑みを見つめていたとき、ドアが思いもかけない乱暴さで開かれる。
「葛木さん! ……ストーブも消えて、こんなに寒いし、あかりもつかないで」
瀬尾は、部屋のあかりをつけた。
「ごめんね。ちょっと問題があって、夏木さんと僕で、おとうさんの所にいっていたから」
「愛子の死体が見つかったんでしょう?」
冷静に言う花衣に、瀬尾は少しだけひるんだようだ。
しかし、いつもの賢く優しい瀬尾の表情を取り繕う。
「うん……それに、別の問題が起きてしまったんだ」
「骸骨は、私のおかあさんよ」
「……葛木さん……?」
「瀬尾くん」
花衣は、絨毯の上に放りだしてあった果物包丁を取り上げる。
「私、死んでしまおうと思ったの」
「え?」
「私の中にいる多重人格なんだか、怨霊なんだかしらない人たちや。村のこと、おばあちゃんに叔父さんたち。もうなにもかも嫌になったの」
花衣は、大きく息を吸う。
今まで感じたことのない、力が体にわいてくるようだ。
「でも、もう自分が死ぬのはやめたの。……私は、私の居場所を、これから作りたいから」
これまでにない花衣の様子に、瀬尾は戸惑ったが、しかし、果物包丁を受け取りながら、光る目を花衣に向けた。
「なにがあったかは分からないけど、反撃開始ってことかな」
「うん」
「おとうさんのところに行ったら、解決するかもしれないいんだよ」
「自分にあったことをきちんと知らなくちゃ、おとうさんの所にいっても、私は今のままだわ」
「そうか」
瀬尾は僅かに淋しそうだ。
今まで、花衣と寄りそい傷を舐め合って、どうにか保っていた柔らかい自我に、本当の成長期がきていることを自覚したようでもあった。
「それで、どうしたいの?」
「私を谷に連れて行って。瀬尾のおじいさんなら、谷になにかしら影響力を持っていると思うの……私の名前を出したっていい。私を、葛木本家に連れて行って」

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