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暗い森の少女 第四章 ③ 孤独の印

孤独の印



上の叔父の葬儀は12月になったばかりの雨の日に行われた。
泣いて取り乱した祖母をどうしていいか分からず、花衣は下の叔父に電話をかけたのだ。
時間は早朝の4時で、仕事でなかったらまだ叔父は寝ているだろうと不安だったが起きていた。
花衣が端的に上の叔父が事故にあって亡くなったようだと話すと、下の叔父は一瞬だけ絶句したが、「今すぐ帰るから」と言って電話を切った。
まとめた髪もざんばらになり、化粧も涙で取れてしまった祖母は、一晩でいきなり老いたように見える。
花衣は、祖母が41歳のときに生まれたので、今52歳だ。
村の女で50歳を過ぎた者はみな老人だとひとくくりに思っていたが、改めて祖母を見るとまだ『女』の匂いを残してるようだ。
(葛木の女だから?)
はっきり聞いたわけではないが、総領息子であった曾祖父の娘でありながら、祖母が葛木家に迎えられなかった理由は、「他家に嫁いでしまっているから」らしい。
葛木の女は、「葛木姓」を名乗ってこそ価値があり、一番上等なのは「無垢なまま両親の決めた婚約者に嫁ぐこと」で、次が「無垢なまま谷の男の妻になること」だ。
そして、それ以外の女は、
(葛木の名を売り物にして娼婦のように扱われる)
いつか座敷牢の女が言っていた言葉を思い出す。
もしも、花衣がすでに無垢な少女ではないと葛木家に知られたとしても、「それなりの値段」で売られるのだろう。
どこに行っても、花衣をただひとりの人間だと思ってくれるひとはいないのか。
祖母はもう切れてしまっている電話の受話器を握ったまま、空虚な目を見開いているだけだ。
すでに愛子のことも言わない。
(あれだけ可愛がっていたのに)
ほんの少し皮肉に思う。
下の叔父がその恋人を連れて家に帰ってきたのは、すっかり夜が明けた朝の7時であった。
玄関で呆然としたまま座り込んでいる自分の母親と、その傍らで時間が止まったように立ち尽くしている姪を見て、酒乱で暴力的ではあったが情の厚い下の叔父は、涙ぐみながら母親を抱きかかえ布団に横たわらせ、青白い顔をした姪の肩を引き寄せる。
「えらかったな、おばあちゃんについていてくれたんだな、がんばったな」
ねぎらいの言葉も花衣になんの意味はなかった。
下の叔父の恋人が祖母に付き添っている間、下の叔父はあちこち電話をかける。
上の叔父が死んだという一報は警察からだったそうだ。
ここから車で2時間ほど離れた港の埠頭で、ブレーキもかけず海に飛び込んだところを、夜釣りに来ていたひとが通報してくれたらしい。
運転免許証で身元が分かったそうだ。
「花衣、おじちゃんはこれから上のおじちゃんを迎えにいかんといけん。このおばちゃんと一緒に待っててくれ」
「松下のおじさんは来てくれないの?」
花衣の言葉に叔父は目を見開く。
花衣が「松下のおじさん」と呼ぶのは、母や叔父たちにとっては10歳年上の父方のいとこで、都会で暮らしているから普段は交流はすくないが、こういう時に頼りになるのは祖父の葬式のときに分かっている。
「そうか、親戚にも村の奴らにも言わんいけんか」
「手伝うよ」
綺麗な逆三角形の顔をした猫のようにしなやかな体つきの叔父の恋人が言った。
「花衣ちゃん? 親戚のひとの電話番号とかわかる? あと、村の役員さんとか」
「電話番号はわかります。でも、村のひとは」
なんと言って頼めばいいのか。
この村で松下の家族がそれなりに暮らして行けたのは祖母のお陰であった。
曾祖父に似て粗暴な下の叔父、そして妻でもない恋人が頼んだところでこの家のために動いてくれるとは思えなかった。
「とにかく親戚に報せてくれ」
叔父はそれだけ言うと今度こそ出て行った。
叔父の恋人は花衣の教えた市外電話番号にかけて、分かっている限りの情報を親戚に話している。なにか商売でもしているのか、よどみなく、時折感傷的に話すその声は綺麗だ。
「花衣ちゃん、親戚のひとが話したいって」
恋人が花衣に受話器を渡してきた。
「松下のおじさん?」
「花衣ちゃんかい? 大丈夫なのか」
一昨年、祖父の法要で会った母たちのいとこは、動揺をかくせないように問いかけてくる。
「おばあちゃんは寝込んでいるだってね? 狭心症は落ち着いているのかな。忠が事故に遭ったって、間違いないんだね? 今、大は迎えに行っていて、花衣ちゃんはさっきのおねえさんと、倒れちゃったおばあちゃんと3人だけなのか?」
「うん」
「これからすぐに向かうから。でも7時間くらいはかかるかな……。夜になってしまうけど、花衣ちゃんは大丈夫かい?」
「うん」
慌ただしく親戚が電話を切る。
「夜には来てくれるそうです」
「よかった」
叔父の恋人はほっとしたように笑う。
世慣れた雰囲気を持っていたが、はじめて訪れた家でいきなり主婦のような立場に立たされてたまったものではないだろう。
それでも恋人は、祖母の額のタオルを換えたり、花衣の食事の用意もしてくれた。
8時前、集団登校で集まっていた幼なじみに学校を休むことを言づて、花衣はある電話番号を回した。
待つ時間はそれほどなく、相手に繋がる。
「はい、夏木です」
明るい声に、花衣はやっと体が震え泣きそうになっていることに気がついた。
祖母が上の叔父が亡くなったと言ったときから、いや、その前の悪い夢から、ずっと花衣は怖かったのだ。
嫌いだと思っていた上の叔父と愛子が消えてしまい、そのことで祖母が倒れた。
この家での生活は決して快適で愛情に恵まれているとは言えなかったが、ある日突然「家庭が崩壊する」かもしれない出来事の連続に、花衣は泣きじゃくった。
「もしもし……花衣さんなの?」
電話口でいきなり泣き出した相手に困惑したようだったが、夏木はすぐに気がついてくれたのだ。
「どうしたの? 何があったの?」
「夏木さん」
たどたどしく花衣は上の叔父が亡くなったこと、愛子が行方不明になったことを話した。
愛子と上の叔父の関係、花衣が愛子を溺死させたことは、夢なのか現実なのか分からず、電話では伏せる。
「わかったわ」
夏木はきっぱりとした声で言った。
「村の世話役への連絡やお通夜の準備などは、私から相談するから安心して。あと私もこれからそちらに行くからね」
「でも」
夏木は瀬尾の家に手伝いに行かなければならないだろう。
「大丈夫よ、私は瀬尾の奥さんの代わりに村のことを任されているから、このことはちゃんと仕事よ、心配しないで」
夏木の迷いのない声に、強い安堵を覚えた。
電話を切ると、花衣は自分が立っていることも厳しいほど疲れていることに気がつく。
叔父の恋人に、村のひとが手伝いにくること、少しだけ眠らせてほしいことを伝え、自室に戻った。
窓の外はすぐ崖の暗い四畳半の部屋は、冷え切り居心地がいいとは言えなかったが、それでもこの家で花衣の居場所はここだけである。
(上のおじさんが死んだ)
そのことに対して、なんの感情も抱けない。
(私は、おじさんのことが嫌いだった)
今まで自分の意識の上でも、「苦手」、「馬があわない」といった言葉で誤魔化していたが、花衣ははっきりと思った。
下の叔父も嫌いであったが、今はこの家を出て花衣への暴力もなくなり、どうやら花衣の養育費の使い込みにも関与しなくなっているらしいので、強い拒否感はない。
しかし、上の叔父はいつもむっつりとしていて、カエルか蜥蜴を彷彿させる感情の見えない爬虫類のような目を持って、いつも花衣の監視していた。
それは花衣が「ふしだらな娘」に成長しないかという意味だと思っていたが、今更花衣は理解してしまったのだ。
あの目の奥には、一部の村の男たちが花衣に向けていた淫蕩の色があったことを。
だから、酒に溺れて花衣に暴力を振るう下の叔父より、ねちねちと絡んできては暴言を吐く上の叔父の方にが嫌いだった。
おそらく、上の叔父は幼女しかそういう対象にしか見れなかったのだろう。
花衣が幼かったとき、上の叔父は花衣と一緒に風呂に入りたがった。
その当時は上の叔父は優しかったが、花衣が小学生にあがる頃からいきなり花衣に厳しくなった。
そして自宅を出て花衣との関わりも減った頃、3歳の幼女、愛子が我が家にやってきたのだ。
下の叔父は破天荒ではあった友人も多く、今も同じ年頃の女性と暮らしていることを考えると上の叔父の黙り込んで、あくまでも「こちらが」叔父の希望を察してやらないと不機嫌になるさまは、その精神がいかに未熟であったのかが現れている。
(それにしても)
愛子はどこにいったのだろうか。
上の叔父の性癖に疑いは持てない。
だから、それを花衣に目撃され混乱したまま車を走らせ、とうとう自死を選んだのだろう。
しかし、その後のことは霧がかかったようにはっきりしない。
愛子とあの森に行った記憶がある。だがもう日も暮れた後、すっかり普通の3歳児に育ったとはいえまだ足元がおぼつかない愛子を連れて、村の境界線にある森まで歩いて行くなどできただろうか?
夢の中では花衣は愛子にため池に突き飛ばされそうになり、思わず反対に愛子をため池に沈めたのだったが、夢から覚めた時、愛子はこの家の浴槽で溺死していた。
夢の夢から覚めた今、風呂場には死体などなかったことは確認済みだ。
(どこにいるの)
心配というより、自分を守るためにも愛子の所在が知りたかった。
本当に愛子のことを手にかけたのだろうか?
そのとき、部屋の襖から声をかけられた。
「花衣さん、夏木です」
花衣はベッドから飛び上がり夏木を迎える。
夏木はいつものように髪をうなじでお団子にしていたが、服装は黒いワンピースだった。
「大丈夫よ。もう花衣さんは頑張らなくていい。あとは大人の仕事だから」
その言葉を聞いて、花衣は安心しきって眠り込んでしまったようだ。
起きたときには、もう上の叔父の遺体が居間に横たわっていたし、都会の親戚も揃っていた。
祖母は上の叔父の遺体にすがって泣きわめいている。
夏木と下の叔父、親戚の話し合いで、村人にはあくまで「事故」で亡くなったことにしようと決まっていた。
噂は流れるだろうが、警察からも「運転を誤った可能性がある」と言われているのだから嘘ではない。
夏木から村の世話役に話が行き、夜になると男たちがぞろぞろと家にやってくる。
村人からよく思われていない下の叔父はほとんど話すことはなく、都会から来た親戚がうまく場を和ませながら葬儀の手伝いを頼んでいたようだ。
花衣と下の叔父の恋人は、居間で泣き続ける祖母の側にいた。
「お疲れ様です」
夏木が湯飲みをのせた盆を持って入ってくる。
「コーヒーと、花衣さんには生姜湯ね。温まるから」
祖母の近くに緑茶の入った湯飲みを置いたが、気がついてもいないようだ。
「なにかあったら起こしますから、休んでください。布団は二階に敷いてますから」
「はい」
下の叔父の恋人は固い表情で頷いた。
夏木が居間を出て行くと、そっと花衣に耳打ちした。
「あのひとも親戚のひと?」
「ううん」
花衣の返事に首をひねったが、恋人は気疲れをしていたようでコーヒーを飲んだら二階に上がっていく。
結局二日後に通夜が行われ、三日目の12月1日に葬儀という運びになったのだ。
まだ雪は降らなかったが、鬱陶しい雨の中、玄関の前に設置されたテントに香典を持った村人がやってくる。
中には焼香のため家に入るひともいたが、たいていは香典は渡すと雨を避けるようにそそくさと帰っていった。
「花衣さん」
居間に組まれた祭壇の前に座っていた花衣に声がかけられた。
「あ……」
葛木家の谷に住む男が礼服を着て頭をさげる。
「本当は当主夫妻が伺いたいと言っておりましたが、ひっそりとお見送りがしたいとのことで私が名代として参りました」
「ありがとうございます」
花衣も深々と頭を下げた。
「喪主はおばあさまが?」
「はい。でもおばあちゃんはちょっと体を悪くしていて。叔父さんも葬式になれてないから、親戚のひとが色々してくれているの」
「そうでしたか、それならばやはり私どもがもっとお手伝いに上がればよかった」
男は悔しそうに言う。
「おばあさまと、その親戚の方にご挨拶がしたいのですが」
「待ってね」
花衣は部屋を見回す。
下の叔父は村の男に囲まれてすでに酒を飲んでいるようだ。騒ぎを起こさなければいいのだが。
都会からきた親戚の姿が見えず、多分自室で呆けたようになっている祖母に元に葛木の男を連れて行く気にもなれず迷っていると、夏木が通りかかった。
「夏木さん」
「はい?」
今日は瀬尾家の名代とした来ている夏木は、黒い礼服に真珠ののネックレスを身につけて、とても上品で気品すら感じる。
「あの、葛木の家のひとがおばあちゃんたちに挨拶をしたいって」
「ああ、でも今はちょっと……親戚のひとなら呼んでこれるわ」
台所に行くのか廊下の奥に進むとき、谷の男に会釈する。
「花衣さん」
「はい?」
男の声に動揺が見られた。
「あのひとは、その、松下の親戚の方ですか?」
「いいえ」
花衣は首をふる。
「違うわ」
「でも」
男は狂おしい目で花衣を見つめる。
「あんなにそっくりじゃないですか、花衣さんのおかあさんに」
何を言っているんだろうか。
花衣は言葉の真意に気付けないまま男をぼんやり見上げた。

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