暗い森の少女 第四章 ⑦ 時を超えた呼びかけ
時を超えた呼びかけ
女は長い髪を若い娘のように垂らしている。
頭には薄い紫のリボンをつけ、おそらく同じ生地でできたゆったりとしたドレスを着ていた。腕に抱えきれないほど白い花を抱えて、首をかしげあどけない微笑みを浮かべている。
明るくて優しい、この世の穢れも悲しみも知らないような顔立ちは、目の前で紅茶を飲んでいる少年にそっくりであった。
「葛木さん、もう少し食べなきゃ」
意識がはっきりすると殴られた体がひどく痛み、夏木が用意していくれた柔らかいパン、温めた牛乳も飲み込むのがやっとだ。
瀬尾は少しだけ砂糖をいれた紅茶を飲み、瑞々しいレタスのサラダを食べる。
普段は専用の食堂か自室で食べるらしいが、花衣がこの家にいる間は瀬尾の曾祖母の部屋で食べようということになり、2人用の小さなテーブルで朝食を摂ることにしたのだが、花衣には食事よりも安静のほうが必要らしいと感じていた。
「せめてホットミルクだけでも飲んで?」
心配げに眉を寄せる瀬尾にそう促されて、仕方なく飲む。かすかに蜂蜜の香りがする。
瀬尾が食べ終わるの待っている花衣は、部屋に飾られている何枚もの肖像画が気になった。
白い壁に金色の額縁が豪奢である。
その額縁の中にいるのは、年齢は様々だったが、同じ女性だ。
まだ花衣と同じくらいに見える少女時代から、40代くらいの成熟した豊満な大人の女性になるまでを描いたらしい。
どの絵も、こちらにむけて朗らかに笑いかけている。
「ひいおばあさんだよ」
花衣の視線に気づいたのか、瀬尾が予想したいた答える。
「祖父が学生時代に描いたんだそうだ」
驚いた。
絵のことはまったくわからなかったが、生き生きと紅潮したに頬にあるえくぼ、癖のない髪の艶、持っている花の影も精密に描かれている。玄人はだしというのだろうか。
そして、瀬尾が語った話から、この絵を描くように命じたのは曾祖父だと思い込んでいた。
「祖父は、母親である曾祖母のことを大好きだったんだ。崇拝といっていいくらいね」
料理とは別の皿に用意されたリンゴをかじりながら瀬尾は言った。
「僕が覚えているひいおばあさんは、ぼけてしまって立つこともできなかったけど、絵を見る限り綺麗な人だったようだし、ひとり息子の祖父を溺愛していたらしい。もちろんひいおじいさんはやっと迎え入れた妻だし、この家ではひいおばあさんはまさにお姫様か女王様のように敬われて暮らしていたんだよ」
花衣は陰りのない絵の中の女性を見つめる。
ざんばら髪を背に垂らし、いつも昏い淫蕩な意味を浮かべる座敷牢の女とは似ても似つかない。
しかし、女が見ていたあの夢がまったくの架空の出来事とは思えない。
実際この女性も、一度は道ならぬ恋のために家族に閉じ込められて、暴行を受けていたことは瀬尾も夏木も事実だと言っている。
「……確かに悲しい出来事はあった」
瀬尾は食事を終え、一番大きな肖像画の前に立った。
ゆるくまとめた髪に白いリボンをつけ、ウエディングドレスのような真っ白いレースが幾重にも重なった衣を纏った女性が、聖母のように微笑んでいる。
やはり、瀬尾に似ている。
血の因縁を感じてしまった。
「ひいおばあさんが、自分に起こった出来事を忘れてしまったことは聞いたよね? それはひいおじいさんにとっても思ってもいなかったことだったらしく、かなり慌てたそうだよ。ひいおばあさんは『忘れること』で自分を守った。万が一にも、真実を思い出さすわけにはいかない。だから、多額の金を、葛木本家に渡した」
「え」
瀬尾は絵を見つめながら話を続ける。
「瀬尾の家の『分限者』と言われているのは知っているよね? このあたりの大地主で、そして町にもいくつか土地を持っていた。この村の土地は売れることはなかったけど、町の土地はちょうど大きな工場を建てたいという会社があって、ひいおじいさんはそこに先祖代々大切にしていた土地を売ったんだよ。地方の惣菜屋が持つには莫大なお金を、葛木本家にすべて渡したんだ。口封じとして」
「……」
「もともと、そういうことで暮らしていたんだ、葛木家は。自分たちの血統を、それを欲しがる誰かに売る。売り物は直系子孫の本家の娘が多かったけど、望まれれば谷の娘……ううん、男の子だって売っていた」
声にならないあえぎが花衣からもれる。
穏やかそうな当主夫妻、いつも花衣に優しく接してくれる谷に住む一族も、結局は花衣を『売り物』として見ていたのだ。
「ひいおじいさんは一部のお金を自分の事業資金にして、戦争中も色々なことに手を出していたそうだよ。あまり口にできないようなことも。それで財産を増やし、戦後は惣菜屋を町のスーパーにしたり、県外にも店を作るくらい繁盛させた。全部、ひいおばあさんのため。……この家を洋風に改築したのも、いつも洋装をさせていたのも、ひいおばあさんが、『真実』を思い出さないようにだ。葛木本家は、純和風の屋敷でしょう?」
「うん……」
「それだけ大切にしていたひいおばあさんを救うために手助けしてくれた谷の娘さん……葛木さんのひいおばあさんには、感謝してもしきれないくらいの気持ちだったろう……亡くなるまで葛木さんを心配していたよ」
「でも」
夏木は言った。
花衣の祖母は、その谷の娘の娘ではないと。
不安にうつろう瞳を、瀬尾も悲しそうに見返す。
「夏木さんも色々調べてくれたし、葛木さんも言っていたよね? おばあさんは、幼い頃にひいおじいさんの義理の妹である芸者に売られたおばさんに引き取られたって。そして、そのおばさんは、ひいおじいさんが芸者に売ったという話をしてくれたことがあるよね?」
「うん」
「隠れて住んでいたひいおじいさんの居場所を、まだ若かったろう義理の妹さんんが探し出すのは大変だったと思う。でも、それだけ本気だった。……僕のひいおばあさんの身代わりに、血筋がいいのとお金だけはある自分の親よりも年上の男に嫁がされそうになっていたんだから」
「……」
「これは、夏木さんが調べて、そしてそれを聞いたひいおじいさんが調べ直したことなんだけど」
瀬尾は肖像画を女を見上げる。
「葛木さんのひいおじいさんは、義理の妹がここに辿り着いたことで、僕のひいおばあさんまで見つかることを恐れたんだ。自分が連れ戻されるのは嫌だったけど耐えられた。……まさか僕のひいおじいさんが、葛木本家に多額のお金を払っているなんて知ることも出来なかったし。それに、それまで会ったことがなかった義理の妹にも同情してしまったみたい。葛木の総領息子だった頃のコネを使って、あるお店に形だけ売ったことにして、義理の妹さんをかくまってもらった。その義理の妹さんは、そこからすぐに郵政省の役人だった人に引かれるという形で嫁いでいる」
祖母から聞いたことのある、『芸者に売られた叔母の話』は、いつも不思議であったのだ。
三味線も弾かない、芸事の稽古もしない『芸者の叔母』は、毎朝近所の豆腐屋から出来たての豆腐と豆乳を祖母に買いに行かせていたそうだ。まだあたたかい豆乳を祖母は飲ませて貰い、たまに炊き上がりの米の上に昨日のパンを乗せてふっくらしたところを食べさせてもらったという思い出、叔母が『冷たいが金は持っている』男との間に息子を授かり、その男の子と姉弟のように育てられた記憶。ちゃんばらごっこをしたり一緒に芝居小屋にいったという、恵まれた生活を送っていた祖母の幼少期。
瀬尾はため息をつく。
「その男の子にはすぐ妹さんができた。どちらも葛木さんのおばあさんにとってはいとこだけど」
「知らない」
目を大きく開いた花衣のことを、瀬尾はまた淋しい目で見た。
「その人はね、戦争がまだ激しかった頃にある男の人と結婚を誓い合ったそうなんだ。その男の人が戦争に行かなくてはいけないことになっても、ずっと待っていたんだ」
「……」
「でも、その男の人は戦争に行ってすぐに死んでいた。……いじめだったそうだよ。あんな命の極限でも、人間は自分より弱い人を見つけるといじめるんだね。その人のお兄さんも別の部隊にいたそうだけど、遺品を預かり、日記や手紙を見て、おばあさんのいとこである女の人のことを知って、戦争が終わってすぐに訪ねてたんだ」
祖母のいとこの恋人の兄が、自分になんの関係があるのだろう。
「そのお兄さんは他にも兄弟がいたけれど、みんな戦争で死んでしまっていた。体が弱くて戦争に取られることがないと思っていた弟がまさか最前線に飛ばされて、しかもいじめで亡くなったことは深い傷を作ったし、そのことを告げられた女の人もとても悲しんだんだと思う。僕にはそういう感情がわからないけれど、ふたりは慰めあううちに恋人同士になったんだ」
「……」
「昭和27年。その女の人は亡くなってしまった。産褥熱のせいだったそうだよ」
「子供が生まれたのね」
「そう」
瀬尾の声はさらに低くなる。
「お兄さんの家族は疎開してこちらにいたけど、頼りになりそうな姉や妹はみな都会に帰ったあとだった。こちらに残っているのは、もうぼけて寝込んでいる両親だけ。そして、女の人の家族も転勤で異動していた時期で頼れなかったんだよ」
「……」
「そんなときに自分を前から慕っていた女性に妻にしてくれとお願いされたらどうだろうか? 寝たきりのご両親の面倒も、生まれたばかりの赤ちゃんの世話もする。その子の母親になってあげると言われたら?」
「……」
戦後の厳しい生活は祖母から聞いていた。
しかも、都会育ちで他に誰にも頼ることができない状況なら、その話は天から一筋垂らされた糸のように思えたかもしれない。
「受け入れたかも……とても困っていたら」
「そうなんだ」
瀬尾は頷く。
「自分の家族を守るために、お兄さんはその話を受けたんだ。その女性の家族にどれほど反対されても、受け入れなければ、自分の両親と生まれたばかりの子供が死んでしまうかもしれない。特に恋人の忘れ形見の子供はどうしても守りたかったんだ、きっと」
「瀬尾くん。……その話は私になにか関係があるの?」
戸惑う花衣の質問に、瀬尾は答えた。
「葛木さんのおじいさんなんだよ、このお兄さんは」
「え」
「葛木さんのおかあさんは、おじいさんと恋人の間に生まれた子供なんだ。おばあさんは、継母になる」
絶句する。
記憶の中の祖父は、花衣を目の中に入れても痛くないというほど可愛がってくれていたが、それは溺愛する娘、母の子供のお陰だと花衣も気がついていた。
そして、祖母が下の叔父の非行を祖父に隠し続けた理由は、自分が本心から愛された妻ではないという引け目があったのかもしれないと思い至る。
祖父の葬儀の時、母は季節外れのフリージアを探して歩いた。祖父が大好きな花だというフリージア。
祖母が決して庭に植えない花だった。
祖父と母の間だけに確かにあった特別な絆が、まさか母が祖母の子供でなかったことに起因していたとは、花衣に強い衝撃を与える。
「私は葛木の直系じゃない……?」
曾祖父と谷の娘の子供はみな戦争で死んでしまった。
祖母は、後妻の子供だ。
祖母の叔母は妾腹であり、その母は谷の女でないと聞いている。
眩暈が襲う。
自分はなんのために、こんな所まで堕とされたのか、理由が知りたかった。
「直之さん、私に急かすなって言っておいて」
いつの間にか夏木が花衣によりそっている。朝食の食器を下げに来たのだろう。
「ごめん。でも葛木さんを早く自由にするには事情を話したほうがいいかと思ったんだ」
「そうですね……」
夏木は花衣の背中を撫でた。
思いやりのある仕草に、強い決意が潜んでいるようだ。
夏木はしゃがみ込んだまま、花衣の目を見つめる。
「花衣さん……夢の中で座敷牢の女は妊娠していたと直之さんにお話をされましたね?」
「うん……」
「その夢にどんな意味があるかは今は置いておきましょう。……その女のお腹の子供は、直之さんのひいおじいさんでの子供です」
「うん」
「でも、座敷牢の女が直之さんのひいおじいさんに助け出されたとき、まだ女が妊娠をしていたとしたら?」
「え」
瀬尾の曾祖母が救出されたのは、座敷牢に閉じ込められて1年後と聞いた。
人は十月十日身籠もり、出産するという。
「え……」
「直之さんのひいおばあさんは、谷の人たちの暴力によって、一度は流産してしまったんです」
その言葉に花衣はびくりとした。
精神の奥底にある鏡の部屋で、座敷牢の女のうめくような叫びが木霊する。
「助け出されたときお腹にいたのは、直之さんのひいおじいさんの子供ではない。……助け出されたとき、もう臨月を迎えていた座敷牢の女……直之さんのひいおばあさんは、錯乱状態のまま出産されたんです」
「……」
「そして子供を産んだことも忘れてしまった……直之さんのひいおじいさんは、その子供を養子にだしたんです。安全な県外に」
「でも、子供が成長してから帰ってきてしまった。そのあたりのいきさつは詳しくはわからいの、夏木さん」
「……仕事に困ったとしか」
「そうだね。それで瀬尾家の事業を手伝って、それなりに出世もした。結婚もして子供もできたんだよね?」
「はい」
夏木は強い痛みをこらえているように脂汗をかいている。
「子供は2人」
瀬尾はなぜか歌うよう楽しげに言う。
「男の子と女の子。この子たちの両親も本人たちも知らなかったけど、葛木家の直系である僕のひいおばあさんの血を引いているし、それにその父親は」
「直之さん」
遮った夏木の声は震えていた。
「葛木さん」
瀬尾は先ほどとは違う、真面目な様子で花衣に向き直った。
「葛木さんのおとうさんは、成長したこの男の子なんだ。僕のひいおばあさんの孫にあたる人が、葛木さんのおとうさんなんだ」
「葛木本家も花衣さんのおばあさんも、把握されていないようです」
夏木が短く付け加える。
「葛木さんは、妾腹とは言え当時の主の末裔、そして僕のひいおばあさんの血も引いているんだ」
花衣の奥底から、シワだらけの老人がゆっくりと姿を見せる。
今の葛木当主も花衣の祖母も知らない、呪われた血脈の末を逃さないように手を伸ばしていた。
「その女の子が成長したのが夏木さんだけどね」
「直之さん!」
夏木はとうとう悲鳴を上げる。
「夏木さんは、葛木さんの叔母さんなんだよ」
花衣の膝から力が抜けていく。
閉じた瞼の裏には、老人が息がかかりそうな距離で花衣を見つめている。
黄色い乱杭歯が、シワの中から見えた。笑っているのか。
(どうしてここまで堕ちたかって?)
地を這うような声がする。
(お前が『葛木の女』だからさ)
逃げられないのか。
自分はどこにも逃げられない。
倒れた花衣の体を、深い毛足の絨毯が受け止めたようだ。
このまま目覚めたくない。
それだけを花衣は願った。
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