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暗い森の少女第二章 ③ カーテンの向こう側の失楽園




カーテンの向こう側の失楽園


「千佳ちゃん、おねえちゃんにこんにちは」
瀬尾の母親は、赤ん坊の手を握って花衣に振ってみせる。
瀬尾の家に遊びに来るようになってどのくらいになるだろう。
初めて瀬尾の家を訪れたとき、家の奥から聞こえてくる、細い泣き声に驚いた花衣に、瀬尾は笑って見せた。
「去年の秋に生まれたんだ。僕の妹」
その言葉にまた花衣はびっくりしてしまう。
いくら花衣が、自分のことを守るために村の噂を意識して遠ざけているとしても、「瀬尾に新しい子供ができた」という話なら耳に聞こえてきそうなものだ。
瀬尾は、葛木本家と同じくらい広い、しかし、あちこち改装してあり和風と洋風が混ざり合った屋敷の、重厚なカーテンにグランドピアノ、金の縁取りのある立派な本棚のある応接室に花衣を招いた。
すぐに、若い女性が紅茶とケーキを持ってやってきた。
純朴そうな笑顔で瀬尾と花衣を見る。
「直之さん、今日はアップルパイを焼いたんですが、お嬢さんに好き嫌いはなかったでしょうか?」
「うーん」
瀬尾はちょっと悪戯っぽく笑った。
「給食は残すけど、そんなに好き嫌いは多くないかな?」
花衣は真っ赤になってしまう。
花衣は、祖母以外の誰かと食事を摂ることが苦手で、給食は時間内に食べきれない。
1年生のときは、放課後まで保健室で食べきることを強要されたが、花衣はとうとう吐いてしまい、2年で担任が替わったときから、完食するという苦行からは解放されたが、おかずをまんべんなく食べること、牛乳は飲みきることは約束させられていた。
瀬尾にそんなことまで見られていることが、どこかに隠れてしまいたいほど恥ずかしい。
「葛木さんはアップルパイは好き?」
「……はじめて食べるかも」
花衣の家では誰もケーキを好まず、甘い物と言えば和菓子だった。
誕生日やクリスマスには、母や叔父たちが生クリームやチョコレートのケーキをそれぞれ買ってくるのだが、大人は誰も食べない。
「子供は甘い物が好きだろう」
そんな風に言われても、花衣はパサパサしたスポンジに油っこいクリームが塗られたケーキが苦手で、いつも食べきれずにいて、傷んだそれは祖母が母や叔父たちに気がつかれないように捨てていた。
しかし、目の前に置かれたアップルパイからは、まだ湯気が出るほど温かく、甘酸っぱい香りが花衣の鼻をくすぐる。
「紅茶は好き?」
「うん。コーヒーは苦手だけれど」
「それは知らなかった」
瀬尾は白地に金の鳥が描かれた華奢なカップを持ち上げて目を丸くした。
「僕だけが知ってる葛木さんの秘密かな」
秘密、という言葉が少しだけ花衣の心を揺さぶったが、先ほどの恐怖をともなった動揺でなく、不思議なときめきが混じっている。
花衣はまた、自分の頬が熱くなるのを感じた。
「冷める前に食べようか。夏木さんのアップルパイは美味しいんだ」
すすめられるまま花衣はアップルパイにフォークをいれる。
ほろほろとパイ生地がこぼれて食べにくいが、バターの香りに包まれた溶けるように柔らかいリンゴのほどよい甘さに、花衣はうっとりした。
「美味しい……」
「でしょ?」
瀬尾は嬉しそうに微笑み、後ろに立っている夏木を振り向く。
「今日もとっても美味しいね。いつもありがとう」
「これが私の仕事ですから。でも、直之さんにそう言っていただけると私も嬉しいです」
夏木はにこにこと嬉しそうに返す。
「今、千佳ちゃんがぐずっているんですが、眠られたら奥様も挨拶来られたいとのことでした」
「うん」
瀬尾は少し目を伏せた。
すぐに顔を上げて、明るい笑顔で夏木に言う。
「今日、僕が葛木さんを誘ったのは急なことなんだ。葛木さんのおばあさんが心配されていると思うから、電話をかけてくれないかな?」
「わかりました」
夏木が部屋を出ようとした瞬間、
「僕のおかあさんのふりをしてもいいよ」
屈託のない声に、夏木はぴくっと肩を震わせて、ゆっくり瀬尾に振り向いた。
「いやだな、直之さん。そんな嘘はつけません」
いくらか白くなったように見える顔に笑顔を浮かべ、夏木はそそくさと今度こそ出て行った。「今、家の手伝いに来てくれているんだ」
大人しく紅茶をすすっている花衣に、瀬尾は説明した。
「ずっと僕のおじいさんの店で働いていた方の娘さんでね、おかあさんは妹が生まれるまで実家がある東京に帰ってしまっていたから、家のことをお願いしたんだって」
「お手伝いさんなの?」
お手伝いのいる家など、花衣は物語の世界でしか知らない。
葛木本家では多くのひとが立ち働いているが、あれはあくまで親族であり、上下関係はありそうだが、雇っているわけではない。
「お手伝いさんっていうと大げさだね。年の離れたおねえさんみたいな感じかな」
「いいな」
ひとりっ子の花衣は、兄弟に憧れていた。
「うん、そうだね」
瀬尾はまた、目を伏せて小さく口元だけで微笑んだ。
学校では見せたことのない憂いを帯びた表情に、花衣の胸は騒いでしまう。
いつも明るく、正しいことを実行する瀬尾。
先生や上級生からの信頼も厚く、学年だけでなく友達の多い彼の秘密をのぞいているような、気まずい、だけれどほのかに優越感を感じてしまった自分を花衣は恥じた。
アップルパイを食べ終えて、瀬尾に誘われて世界の名作全集や図鑑がならんだ本棚の前で背表紙を見ていたとき、ドアがノックされ、見たことのある女性が部屋に入ってくる。
「いらっしゃい。葛木さんだったわね? 直之の母です」
白いブラウスにベージュのカーディガン、紺色のすとんとした長いスカート姿の女性はおっとりとした笑みを浮かべて花衣を見た。
「ごめんなさいね、すぐに挨拶に来れずに。今赤ちゃんがいて、バタバタしていて」
言葉は優しいが、忙しいときに約束もなく訪れたことを責められている気がして、花衣は怖くなってしまう。
あからさまに向けられた敵意には慣れているが、こういうときどうすればいいか、頭の中がぐるぐるして、花衣の思考が自分の奥深くに落ちていこうとしたとき、瀬尾が自分の母親に話しかける声が聞こえてきた。
「おかあさん、僕が無理に誘ったんだ。葛木さんはとっても本が好きでいつもたくさん本を読んでいるし、同じ本を読んでゆっくり感想を話してみたかったんだ」
ドアの前にいる自分の母親を上目遣いで甘えるように見ている。
「夏木さんもいるし、この時間いつも千佳は寝ているから、この部屋ならおかあさんや千佳の邪魔にならないかと思ったんだけど、騒がしかったかな?」
天真爛漫さの中に、若干の媚びが見える。
瀬尾の様子に驚いて、花衣は言葉を失った。
「まあ、そうだったの」
瀬尾の母親は、可愛くてたまらないという風に瀬尾の肩を抱く。
「ごめんね、千佳の世話で直之にかまってあげられなくて。ちっとも騒がしくなかったわ。お利口さんね」
それから、先ほどとは打って変わった親しみを込めて花衣を見た。
「葛木さん、直之と仲良くしてくれてありがとう。この子、6歳まで東京で暮らしていたからか、まだここの生活になれていない所があって。はじめてよ、お友達を家に連れてくるなんて」
思いもよらない台詞に、花衣の動揺は強まる。
「おとうさんは男の子は外で遊んでいればいいっていうけれど、本を一緒に読んだりする落ち着いたお友達は大歓迎よ」
それから、花衣は週に1回は瀬尾の家に誘われるようになった。
何回目かで、機嫌のいい瀬尾の妹、千佳に会えた。
つやつやした桃のような頬を持った千佳は、母親の腕の中で初めて見る花衣に手を伸ばしてくる。
ミルクの匂いがする赤ん坊に、おっかなびっくりで触ると、瀬尾も瀬尾の母親も声を立てて笑った。
「あ、今日はビーフシチューかな」
漂ってくる香りに瀬尾はつぶやく。
「夏木さんはお菓子だけじゃなくて、料理も得意なんだよ。ねえ、春休みになったらお昼においでよ。夏木さんの料理も食べて欲しいな」
花衣に微笑む姿に、影はない。
しかし、その言葉に瀬尾の母親がわずかな間、無表情になったことを、いつも大人の顔色を伺っている花衣は見逃さなかった。
「今日はおとうさん、早く帰ってくるね。おとうさんの好物だから。ねえ?」
瀬尾が振り返ったとき、母親はいつもの育ちの良さに慈悲深さを感じさせる笑みを、その顔に張り付かせていた。

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