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暗い森の少女 第五章 ③ 運命の螺旋に呻く者たち

運命の螺旋に呻く者たち


すっかり日が暮れた真白の部屋に、灯りをつけに来る者もいない。
夜気が花衣の体を粟立たさせたが、それでもじっと、レースの向こう側に虚ろな影になっている丘の上にかかる半月を見上げていた。
今夜の月は禍々しいほどに赤い。
その赤は、襖に散った薔薇色の染みであり、下の叔父が手からぶら下げていた割れた一升瓶からしたたる液体であり、そして、愛子の柔らかな肌の内側の肉の色である。
月明かりを見つめていると、隠されている星の半分が不思議に見える気がした。
そして、そこには、まだ腐っていない愛子の死体と、その足首に絡みつく骸骨があるように思う。
(瀬尾くんは、私の中にいる座敷牢の女たちを、多重人格の病気のせいだというけれど)
確かに、11歳になったばかりの自分が今まで体験してきた出来事は、真正面から受け止めるにはあまりに残酷すぎた。
幼い頃から、「よそ者の、変わり者の家のふしだらな私生児」と蔑まされ、無視をされるか、よこしまな欲望の餌食になっていたのだ。
祖父が生きていた頃は優しかった叔父たちも、いつからか花衣に辛くあたるようになり、愛し守ってくれていると信じていた祖母にも、本当は疎まれていたことを知っていた。
見ないふり、気がつかないふりをして、せめて祖母には好かれるよう、我儘を言わず、もめ事を起こさないでいようと、繰り返される男たちの非道も口をつぐんでいたが、無駄な努力であったのだ。
瀬尾も、自分が本当は望まれていない子供だと知ったとき、それでも愛されるよう必死に答えてきたという。
(おじいさんのいう、瀬尾家の男の子は、賢く元気で、外を駆け回っていても成績は優秀であるべきっていう、むちゃくちゃな要求に頑張って合わせてきたつもりなんだけど。僕のそういう所もおじいさんには気に入らないみたいだ。……なにをしても気に入らないんだよ)
まだ幼さの残る丸い頬に、すでに人生に疲れた者の笑みを浮かべた。
(夏木さんの子供のことはよく知らないんだ。会ったこともないし。でも、色々なことを聞いてもいないのに教えてくる人はいるからね。おじいさんがものすごく甘やかすから、我儘がひどいって話だよ。……そう、僕に似ているから、ひいおばあさんにも、よく似ているらしいね。……おじいさんにはそれも嫌みたいだ。跡取りとして認めていない僕が、大切なひいおあばあさんに似ている事すら)
そう言って、曾祖母の肖像画を見上げた瀬尾に、花衣は寄りそうことしか出来ない自分が歯がゆい。
(ごめんね)
瀬尾は小さな声で囁く。
(葛木さんが、この、村でどんな目にあっているか気がついたとき、ひいおじいさんだけでなく、おじいさんにも話したら、きっとすぐに松下の家から引き取って、町の別宅で大切にされたと思うんだ)
後悔と、そして僅かに侮蔑を潜めた声は続く。
(葛木さんのおとうさんは、夏木さんのおにいさん。ひいおばあさんの血を濃く引いているから……きっと、夏木さんの産んだ子供と結婚させようとしたはずだから……。それだけは、ひいおじいさんに止められたんだ。葛木本家と、直接関わるようなことになってはいけないって。そのときは、葛木さんが家の人にまで暴力を振るわれていることは知らなかったから、時を見て、夏木さんのおにいさんに引き取ってもらえるまで事を荒立てないようにって、そうひいおじいさんは言って、亡くなった。でも、そのせいで葛木さんは苦しい思いで耐えなきゃいけないかったから)
瀬尾のことも、瀬尾の曾祖父のことも責める気持ちになれない。
また、まるで獣のように血統しか見ない瀬尾の祖父には、嫌悪感があった。むしろ祖父に花衣の存在を隠してくれた瀬尾たちには感謝しかない。
(葛木の、血)
谷に住む当主夫妻や一族の話、座敷牢の女の記憶から、確かに葛木の血筋は古いのだろう。
しかし、なぜ、今もその血筋はなお濃く、純血が尊ばれるのだろう。
座敷牢の女は、葛木の女は高く売れると言っていた。
そして、その前世の記憶で、まだ幼い娘が、「抱くと望みが叶う」というあやしげな噂で、高貴な人に一晩売られた、という夢も生々しい恐怖を伴って見たのだ。
ありもしない噂話が広がり、今も葛木の血筋を欲しがる「男」がいるのだろうか。
そして、やはり花衣には気がかりなこともあった。
花衣の母は、祖母の血を引かない、曾祖父の異母妹の娘なのだと瀬尾は言う。
祖母が、曾祖父と一緒に逃げてきた谷の娘との間の子供でないとしても、曾祖父の血を継いでいるのは、今は祖母と、そして下の叔父である。
花衣が夏木の兄の子供であるという事実を、葛木家は知らないはずだ。
ならば血統の正しさと言ったら、やはり曾祖父の異母妹の家系ではなく、祖母とその子供にあるのだ。
葛木家が、なぜ正しい血筋の叔父たちでなく、花衣を望んだのか。
残酷で理不尽な選択がなければ、花衣はせめて、家庭内で疎まれることはなかったはずだ。
(この血が、憎い)
いくつもの夜、花衣はそうしていたように、隠し持っていた果物包丁を取り出した。
祖母が幼い花衣に、梨をむいたり、柿をむいたりしていた頃の思い出がつまった小さな刃は、もう何年、使われていないだろう。
(どのくらい切ると、いいのかしら)
いつもの惑いが胸をよぎる。
自分が死んだら、祖母は葛木本家に責められて辛い立場になるだろう、自分が死んだら、祖母は悲しむかもしれない。
しかし、もう祖母の愛という幻想が消えた今、花衣を引きとめるものはない。
瀬尾、夏木、そして少し話したばかりの父も、花衣が本当に深淵に立っていることを気がついてなかったのだ。
白い部屋が、汚れてしまうのは申し訳ない。
そんなことを思いながら、果物包丁を手首に当てる。
ひた、ひた、と何かが近づいてくる音がする。
水を含んだ重い足音は、花衣の後ろでぴたりと止まった。
柔らかい感触が、花衣の腰に回される。
まろい肉は氷のような冷たさで、次第に花衣の背を這い上がり、腐った水のようなにおいのする息を花衣の耳に吹きかける。
(おねいちゃん)
視線を動かさずとも、肩に張り付いているのは愛子だとわかった。
(もういらないんだね……じゃあ、返してね。『私たち』に、この体)
恐れも感じない。
手首に当てた包丁が、僅かに皮膚を切ったとき、花衣の心の奥底にある鏡の部屋から、しなやかな影が飛び出してきた。
(やめろ!)
いつも無愛想な少年が、目を見開いて花衣に手を伸ばす。
(待っていろと言っただろう! お前は、花衣だ……その体は、花衣のものだ)
少年は内部から不思議な光を発している。
その光は、花衣には暖かく感じたが、今、花衣の内部に融合してきている愛子には、灼熱の業火になり苦しんでいることが伝わってくる。
(花衣)
少年はほとんど光か火の塊になってしまった。
いつか瀬尾が見ていた天体図鑑にあった、白色矮星のように青く輝いている。
手で触れれば、花衣も燃え尽きるのだろうか。
そう思って、花衣はその光に手を伸ばした。
(……あなたを傷つけないわ)
少年であった光から、少女の声が聞こえ、花衣は驚き手を引っ込める。
光はぐるりと一回転をし、また少年の姿に戻っていく。
そして、その背中から、天使の羽根のように生まれてきたものがあった。
白い顔は桃のようにかすかに紅潮し、黒く艶やかな髪は顎の線で切りそろえられている。
真昼の月のような儚い姿だが、強い目線は、どことなく今は蝉の抜け殻のようになってしまった少年に似ているような気がする。
そして、羽化を終えたばかりの蝶のように、花衣の目の前に立ったのは、同じ年頃の少女であった。
(あなたに会うのは、初めてかしら。花衣)
少女が纏っていた光が徐々に暗くなる。
(え……)
花衣は大きく目を開く。
少女は自分に瓜二つであった。
冷静な目つき、意志的に引き締められた口元は、花衣にはないものだったが、そこには双子の片割れのような『自分』がいたのだ。
(こんなことはやめて)
花衣の手にある果物包丁を取り上げる少女は、大人びた口調で言う。
(こんなことをしても、何からも逃げられないわ。あなただって、知っているはずよ)
(……誰?)
愛子に感じたこともない怯えを少女に覚えながら、花衣は尋ねた。
少女は、少し皮肉そうに片眉を持ち上げる。その仕草は花衣の記憶のどこかを刺激する。
(私は『花衣』よ)
(え……?)
(私は、私たちのおかあさんが作り出した『花衣』なの)
少女の言葉に花衣は混乱した。
母が作り出した『花衣』とはなんだ。母の子供は私だけでないのか。
いや、葛木本家で、祖母が谷の人間に嫌味を言われていたことを思い出す。
母には、花衣以外に身籠もった子供がいたと。
(あなたが考えているようなものじゃないのよ)
少女は花衣の思いが透けて見えるように言う。花衣はびくりと肩を震わせた。
(もう、思い出したわよね……おかあさんが、3年前に死んだこと)
花衣の震えは全身に広がる。
そうだ。
花衣は見たのだ。
襖に飛び散った血、割れた一升瓶、そして、机の影に倒れていた影。
(姉貴が飛び出してきたから)
下の叔父も言っていたではないか。
(そう。おかあさんは、家族に虐待を受けていたあなたを庇って、死んでしまった)
(いや)
花衣は声にならない叫びをあげる。
母は、花衣の目の前で死んでいた。血まみれになって、石榴のように頭が割れていた。
しかし、花衣はそのことを気づかないふりをしたのだ。
母の死を知っていることが祖母たちに気づかれたら、なにをされるか分からない恐怖に、花衣は母の死を記憶の隅に追いやり、なかったことにしていたのだった。
祖母や叔父たち、村人のことを酷い人間だと思い込んでいた花衣は、母の死を受け止めることもできない卑怯者であったのだ。
(私のせいで死んでしまった、おかあさん)
(花衣。泣かないで。あなたのせいじゃないのよ。おかあさんは、おとうさんと連絡が取れないままあなたを産んで、それでもふたりで暮らしていこうとした。おじいさんが生きていた頃は色々な援助もしてもらえて、おとうさんといつか再会できるまでやっていけると思っていた。でも、おじいさんが亡くなって、松下の家の家計を全ておかあさんが引き受けることになって、おかあさんは、あなたをおばあさんに預けて、仕事を掛け持ちしなくちゃいけなくなった。だから、いつも帰りは遅かったし、朝も早くて、あなたが家族になにをされているか、知らなかった)
『花衣』は、同じ背丈の花衣を強く抱きしめる。
(おかあさんは、あなたと一緒に葛木姓を名乗ることになったのも、不安だった。おばあさんに泣いてすがられて、名字を変えるだけならと引き受けたけど、どうもおかしいと思い始めていたの。でも、おかあさんは谷に入ることを拒まれていたし、谷に詳しい人がいないまま、ただ働いて、働きづくめで、あの日、下の叔父さんに蹴られているあなたを見て、思わず飛び出した)
花衣は首を振る。『花衣』はだが、冷酷に続ける。
(おかあさんの魂は、でもこの世に残ってしまった。あなたが心配だったということもあるけれど、死んだ瞬間、黒く巨大なものに飲み込まれそうになって、おかあさんは、葛木の家の真実を知ったの。……おかあさんは、強いのね、一端飲み込まれそうになったけど、その禍々しいものを振り切って、あなたのもとへ飛んでいった)
(おかあさんは、私のそばにいたの?)
(そう……でも、その時には、おかあさんが飲み込まれそうになった黒いものが、あたなの中に住み着いていた。あなたに近づこうとするとその塊に吸収されそうになるから、あなたのそばに居続けることができなくなったおかあさんは、もうひとりの大切な人のもとへ飛んだの)
(誰?)
(私たちのおとうさんよ)
『花衣』の言葉に花衣は驚いた。
父の居場所が分からず、苦労していたのではないのか?
(魂には、距離もなにもかも関係ないかもしれないわね……あと、おかあさんが、黒いものに触れたとき、葛木家の歴史が流れるように頭に入ってきた。古くから、葛木の家には予言者や、人を呪い殺すような強い力を持った人間が幾人か生まれていたらしいの。そして、その能力者は、葛木の女が産んだ子供にしか現れなかったの。……同じ家系でも、男の子孫には、その力は遺伝しなかったのよ)
(え……)
(だから、葛木の女は高い金で売られる。……座敷牢の女が言っていたでしょう?)
(あなたも知っているの!? 座敷牢の女のことを)
花衣は『花衣』にすがった。
(座敷牢の女は、私の病気が作ったものじゃないの!?)
『花衣』は悲しい目をしている。
それは、花衣にそっくりなはずなのに、どことなく夏木に似て理性的であり、姉のように大人びた表情だった。
(おかあさんを飲み込もうとした黒い塊……それが、座敷牢の女なの。座敷牢の女は、ひいおじいさんの妹の、辛い暗い監禁時代の記憶も飲み込んでいるけれど、400年にわたって、身内に売られ、娼婦と罵られ、能力者の子供が生まれると取り上げられて時には殺されていいった、葛木の女の怨念が固まった妄執そのものなの。何人もの呪詛がつまった怨霊が、なぜ、花衣の中にあるのかはわからないけれど)
『花衣』の言葉は、花衣の中に嵐を作った。
鏡の部屋では、座敷牢の女が狂ったように笑っている。
いや、泣いている。
座敷牢の女は球体の鏡の世界で幾重にも重なり、その影は全て違う表情であった。
座敷牢の女の狂乱の影で、愛子に似た幼女が、恨みがましくこちらを見ている。
シワだらけの老人だけが、いつもと変わらず闇に隠れるようにひっそりと座っているのが、他のふたりの強い憎悪や悲しみよりも妙に鮮やかで、花衣はぞっとした。
どこにいけばいいのだろう。
花衣は遠く思う。
なにが救いで、なにを頼りに、生きていけというのか、このおぞましいものを抱えた身は。

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