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読み取れてしまう人は淋しい

 小説講座の後はいつもなんだか淋しくて落ち込んでしまう。

 密で温かいコミュニケーションを取れたと思うから、リアルの世界に戻ってきたとき、その落差に落ち込むのかな。

 それとも、先生や参加者のように他者の作品を褒められないからかな。自分の性格の悪さを自覚するから。

 先生はどの作品も、褒めるポイントを見付けてうまくまとめてくれる。参加者もそうだ。どうしてそんなに人のこと褒められるんだろう。この参加者のこの作品に、そんなこと書いてあったっけ。私の読み込みが足りないのかな。

 今日気付いたのだけど、参加者はともかく、先生は、文面から読み取れる以上のことを汲んで、その上で褒めてくれている。

 自分の作品について、文字の裏にあることを読み取って貰った時も、嬉しい反面淋しく感じるのは、そういうことなのかもなと思った。

 講座の外では、これらの作品は、どこかの賞に出したけどダメだったり、なかなか完成まで至らなかったり、著者は納得のいっていない作品だ。だから先生の言葉には、優しい嘘が混じっているのだろうなと思ってしまうのだ。

 先生は嘘なんてついていない。ただ、とてもよく読める人なのだ。書くプロは、読むプロでもあるらしい。

 この講座に参加する小説家志望者は先生の読解力に甘えてはいけなくて、「先生は褒めてくれたけど、そこのところちゃんと書けてるっけ」「意図的に書いていないとしても、読み取れるだけの間なり、なんなりを匂わせられているっけ」って思わないといけないのだろう。

 優しさの中に、見えない壁も感じるから淋しいのかもしれない。この作品はいったいどれくらいのレベルなのか、掛値の無い評価はどうなのか率直に教えて欲しいと思う。ショックを受けるようなコミュニケーションじゃないと、「ホンモノ」でないという気がするというのは、私の心のバグなのでは。自己卑下癖というか。そのくせ繊細で、プライドは高いから、もしズバッと欠点を指摘されたら、落ち込んだり反発したりするくせに。

 先生や、参加者との間にある見えない壁は、人が気持よく付き合うのに必要なのだ。相手の壁も、私の壁も。壁がなきゃ、なめくじみたいにちょっとのことでしおしおになってしまうし、戦争が起こってしまう。それが理性では分かっているくせに、淋しいと思ってしまう。困ったものだ。

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