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読書感想文

 小学一年生の宿題は全然大したことない量だったが、親も介入しないとできないようなものが結構ある。たとえば夏休みの思い出を絵に描くとか、近所で「しぜんをはっけんしよう」とかいう課題を、共働きのおうちの人がするのは結構大変なのではないか。

 読書感想文は三つもある。全国読書感想文コンクールに出すものと、夏休みの冊子のものと、図書館から配られた読書の冊子のもの。真ん中以外は一応任意ということになっているが、全部やらせないといけないような強迫観念にかられる。

 図書館のものは、感想欄を全部埋めるといいものがもらえると説明した一週間後に、本人のやる気が芽吹いてきた。「この本で書く!」と選んだのは全国読書感想文コンクールの課題図書だったが、まあいいや。やる気はあるけど書き方が分からないというので、自分がいいなと思ったページをあげさせて、そのどこがよかったのか書いてごらんと言うと、なんと文章を丸写しした。

 日本語って難しい。たしかに「どこがよかったか」書いたのだ、彼女は。

 任意のものなのだし、消して直させるのもどうかと思いながら淡々と説明し、不機嫌にせずに直させることができたが、まだ行が余っているので、「このお話の中で好きな子はいるかな」と聞いたら、ひとこともセリフの無かった動物を一匹あげて、「むらさきのリボンを付けているから(好き)」と言う。

 うん……そういう意見もあっていいけど……。どこから説明しようかな……。

 むらさきのリボンをつけているだけでは、この子のことがどういいか、他の人に分かってもらえないと思うと話して、なんとか話の筋に合わせたことを書かせはしたのだけれど、これはいいことなのか子供の感性を矯めることなのかと悩んでしまった。たとえば人の好悪を決める時って、最初は身に付けているものが自分の好みかとか、そういうところから始まるのに。そういうものの見方を正すことで、人間関係の作り方を歪めたり、「~と思いました」「私も~したいです」が多用された、杓子定規で面白くもない感想文書きに子供を押し込めたりしてしまうのではないか。いや、社会性というものはそうやって習得すべきものだし、感想文は書いてあることを正しく読み取るのが目的なのだから、書いてないことを書いたり創作したりしてはねらいから外れるのだけど。

 私が小さい頃は最初からあんまり疑いもせず「~と思いました」式の感想文を書けていたのと思うのだけれど、こんな感想文が出てくるのは、私がこれまで子供を伸び伸び育てることが出来ていたということなのか、もうちょっと子供に関心を持って導かなければならなかったということなのか、頭を抱える。

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