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自分のことは棚に上げてぶった切ってみる/夢破れて山河ありのあとは

 オンライン小説講座でした。
 小説講座のいいところは、他の人の作品を客観的に読めることだと思う。私は売られている小説を「そういうもの」として読んでしまいやすいし、批判はネタバレにつながるので、心理的に言いづらい。素人が書いている作品、しかも批評して欲しくてこの場に出している作品を、どこがいけないんだろうという視点で読むのは、単純に勉強になる。

 今回の参加者の中に、「新人賞に出したが、落ちてしまった作品の一部を提出した。作品のどこがいけなかったのか教えてほしい」という人がいた。
 
 私の参加している会は、参加者同士で厳しい批判をしない雰囲気がある。それはいいことなのだけれど、自分がせっかくモヤモヤしたのに、言語化しないと勉強にならないのではと思った。

 その作品を題材に、私がどこに引っかかったのか、どういう風に書くと良いのか考えてみたいと思う。
 ※題材とは書いたものの、他人の作品を晒しあげて断罪したい訳ではないので、作品のディティールは適宜改変してある。

1 どこがダメだったのか

①タイトルと登場人物名

 その作品のタイトルは、登場人物名と結びつけたものだった。私は、正直そこで読む気を無くしてしまった。ああ、この二人が確執の末どうこうなる話ね、と。冒頭二、三行でこの話の方向性が見えてしまうのは、新人賞が嫌う「既視感」につながるので良くないように思う。もっとも、これは好みの問題もあるだろうし、十分な計算の上ならいいと思うけれど。

②ストーリー進行の出し惜しみ

 この話では、ストーリー進行について以下の問題点があったと思う。

・冒頭の、主人公二人の危ういやり取りの伏線が、100ページ過ぎても回収されない
・主人公の職場での動きと、その結果発せられるモノローグに変化がなさすぎる
・①で指摘した、タイトルから想起される登場人物の関係性に、ストーリーがいつまでも追い付いてこない

 私はいち素人だし、同じ志を持つ人間として、全部読んだけれど、私がもし下読み委員をやっていて、嫌だと思ったらいつでも読むのをやめていいと言われていたら、最後まで読んだかわからないなと思う。とくに最後の点について、タイトルからは登場人物同士の濃密な関係が透けて見えるのに、いつまで経ってもそういう話になってこない。じゃあなぜこのタイトルを付けたのか、この作者はちゃんと考えているのか、と思ってしまいそうだ。

③場面や登場人物がイメージしにくい

・主人公格の二人のうち、一人の性格が矛盾しすぎている。
・他の登場人物の振る舞いも矛盾が多く、キャラクターがイメージしにくい
・舞台となる会社の姿(業種・規模)が曖昧なので、登場人物の仕事の忙しさや仕事の仕方に妥当性が欠ける

 ③についてざっくりというと、違和感ということに尽きる。その作品には、どこの会社でも/コミュニティーでもいるよねこういう人、という人物が何人か出てくるのだけれど、読み進めても、一人一人がしっかりとした人格として立ち上がってこない。

 それはなぜだろう。

 純文学なんて、矛盾大歓迎なジャンルであるはずだ。

 漫画のキャラみたいに、「優等生で生徒会長もやってて黒髪の優しいお姉さんタイプ」みたいな、分かりやすい人は現実にいないのだし、純文学でそういう人物を出すのは、よほどうまく設計しないとお話として成功しないだろう。それなのに。

 この話に出てくる、主人公に仄かな反感を抱いているらしいもう一人の登場人物は、通常、こういう人物だったらこうだよな、という枠から微妙にずれている。

 自称サバサバ系を名乗る女が、実際はねちねちしている、なんてよくある話だけど、その作品では、自称サバサバ系の女の着ている洋服がフェミニンで、いつも巻き髪で愛されメイクに命をかけているというような描かれ方なのだ(※本当にそういう人物が出てきた訳ではなく、あくまでたとえである)。

 サバサバ系だったらパンツスタイルにストレートロングヘアじゃなきゃいけないということはないのだけど、なぜこの人はサバサバ系だと言っているのに、外見はこうなのか(作者はなぜこういう人物像にしたのか)、早い段階で提示してあげた方がいいのではないか。

 実際の世の中には、性格と外見とが矛盾している人、自分のこと分かってない人、結構いる。だからこの人の自称サバサバ系の描き方も、これはこれでアリなのかもしれない。

 違和感は悪いことではない。違和感があるから、気になって先を読みたくなることもある。いい違和感と、悪い違和感の違いはどこにあるのだろうか。

 もしかしたら、私はキャラ設定に違和感を感じたのではなくて、お話が進行してもなお、その人の人物像がうまく結像しなかったことにフラストレーションを抱いていたのかもしれない。

 自称サバサバ女の例で引き続き説明を試みると、その女性がやっていることは、周りに媚びているような行動なのに、周りはそれを「サバサバしてる!」って評価している、というようなことかな。そして、主人公もそれを看過してしまっているような。そういう小さな違和感が、この作品には一杯あって、「そういう世界観なんだ」という納得には、ギリギリのところでならなかった(それはもしかしたら、私が素人の作品を読んでいるという意識で、厳しめに判定していたせいかもしれないけれど……)。

 純文学は矛盾に満ちた人間の有様を描く芸術なのだけど、一方で常識的に考えたらこうだろ、を外してはいけないのだと思う。矛盾を書きたいなら、ちゃんとここは矛盾なんです、作者の描写不足じゃないんですということが伝わらないといけない気がする。

 何を描くか描かないかがはっきりしてないから、そういう印象を抱くのかもしれない。読者が人物像を描けない状態が、作者の狙い通りになっているか、コントロールできているか。敢えて描写していないところの量が、読者の知りたい量と一致していないと、フラストレーションや、言いようのない違和感につながるのかもしれない。

2 夢破れた作品の弔い方

 ところで、新人賞に応募してみたけれど、残念ながら選に漏れてしまった時、その作品をどうすればいいんだろうか。

 今回、その人が講座に出したのはひとつの方向性だな、と思った。住野よるは「膵臓」を、どうにも諦めきれなくて、いろんな会社に持ち込みまくり、最後はWebに出して、ヒットした。

 私は、作品を書き上げた直後、もういい残すことはないから死ぬね、みたいな気分で、これが賞を取るとか取らないとかはどうでもいいような境地に達した。

 それは絶対的な自信と、絶対的な絶望の間のエアーポケットに入り込んだような感じだったのだけれど。

 でも数ヵ月後、不幸にもあの子が刀折れ矢尽きて戻ってきたとして(実際には原稿は戻ってきません)、どうしてあげればいいんだろうか。

 誰にも読まれないのは無念すぎるからと、Webにアップしてもいいのだけど、自分としてはこれでお金をもらうつもりで書いたのに、Webに晒して、そこで幾ばくかのスキやイイネをもらったところで、と思ってしまう。Webに出して、必ず注目されてそこから出版しませんかって話が出るなら出すけど。

 提出当初は言霊になってしまうので考えるのすら憚られていたのだけれど、今回講座に夢破れた子供を出した人がいたので、そういう意味でも考えさせられてしまった。

 講座を受けていることは、リアルな友人以外にはあまり大声で言えないでいたのだけど、三月末に新人賞に出して、自分の中では一区切りついたこともあるので、今回試みに書いてみた。

 毎回の講座についてnote上で総括するのはウザいだろうから、今後、売られている本について、ちゃんと構成を考えて文章を紡ぐ練習をしてもいいのかもしれないな。

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