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子供の世界はモザイクー日記を創作の密度で 五月

子供の世界はモザイク

 最近死生観に目覚めた四歳。食事の度に、「このエビはしんでるの?」と言う。あるいは、「ママがしぬまえに、はしのもちかたなおせるかなあ」と言う。流石にそんなにすぐ死なないし、もっと早く直してください。

 一、二か月前に観たニュース番組で、かしわが絞められていたのを娘二人はとてもよく覚えている。「かしわ、かわいそうだった」と鶏肉の唐揚げを食べながら言う。

 先週、豚ひき肉で味噌そぼろを作って、一日目はそぼろ丼、二日目はジャージャー麺にした。「ねえ、この肉って何肉?」というので、「豚さんだよ」と言うと、目は見開かれ、笑顔が消えた。

「えっ……豚肉って、豚だったの」

「えっ!」そこ、つながっていなかったの。

 塩鮭を焼いて出した時の骨の話と、水族館で魚に骨があることの説明をした時の反応が、紙風船みたいだったのは、このせいか。

 鮭の丸のままの魚を店頭で見ないから、今の子供は鮭の切り身が泳いでいると勘違いしている、という話は一般に広く知られているのではないだろうか。うちの場合、海で泳ぐのは魚、鮭の切り身は食べ物だということは理解しているが、その二つが連続しているのを分かっていなかった。今自分が食べているものは実は生きていたこともあったと、私の言うことを複製できていても、意味が届いていなかった。

 ちなみに、「AだからBである」という、大人には自明な因果関係についても、子供の頭にはその大半がインストールされていない。だから、「葉っぱが枯れちゃったから、水がないの?」というような言い間違えをする。これを、「水をやらなかったから、葉っぱが枯れる」と説明する。

 しかしこの因果関係は、どこまで正しく伝えることができるのだろうか。たとえば、「人は悲しいから泣くんじゃなく、泣くから悲しいんだ」あるいは、「やらなきゃいけないことは早く済ませて、遊んだ方が気分がいいでしょ」みたいなことを、子供に言ってもいいんだろうか。何をインストールするかによって、彼女たちの世界の見え方が決まってしまう。彼女たちの中に育ちつつある価値観を、私の言葉で、より精密なものにも、歪なものにもできてしまう。むろん、私の言葉が素直に受け止められるとは思っていない。しかし自分の中の考えと、私の言葉、そして世間がずれていて、それに納得できないとき、それは呪いとなって、後々彼女たちの首を絞めるのではないか。私はこの七年、こんな恐ろしいことをしていたのか。

色々と改造する(かってに!)

 漫然と変わりたいと思っていては、きっと変わらないし、変わったとしても、変わったことを認識できない上に、狙う方向には変わりにくいだろう。達成感が必要だ。目に見える変化が必要だ。というわけで、誕生日までに、目に見える変化を得ようと思った。さしあたり、子供との関係性でこれはもうしない、ということを子供と約束した。私がこっそり決意するのではなく、子供に意思表明したのが肝だなと、自分で自画自賛している。

 健全な精神は健全な肉体に宿る。元々体は丈夫で無理も利く方だけど、もっと動ける体にしたい。フォロワーさんの記事で、体を改善したら心の姿勢も良くなったというものがあった。その記事を真似て、安価なEMSを買ってみた。

 これって三島由紀夫の肉体改造と同じじゃん。

 自分の創作の源泉は、自分の抱く苦しみである。しかし、その苦しみに果たして価値はあるのか。その苦しみが人間として普遍的なものである可能性は高いだろう。私とて、そこまで逸脱した存在ではない。もしそうだとしても、その苦しみを作品に著したものを、「だから何?」と他者に言われない保証はない。

 最初、肉体改造なんかでうまくいくはずがないと思ってました。でもそんな風に尻込みして、馬鹿にしてた自分を殴りたいです。これまでクヨクヨ、いじいじしていた自分が嘘のよう。彼女も出来、仕事でも成果を出し、身長も伸びた。毎日がバラ色です。肉体改造して本当に良かった!

 ……は冗談だけれど、自分の苦しみを後生大事に抱くのは、手放すと書けなくなるのでは、という恐怖があるのかもしれないなと思う。そんなもの、捨て去ってしまえ。胡散臭いバラ色の自分に変わるくらいの覚悟がなくてどうする。

 どうせそんなに変われないからやってみろじゃなく、これまでの文章(を書いてきたこと)はきっと礎のように残る。その上に、バラ色の文章が築城できるならいいじゃないかと思う。

 一方で、他人がこんなことは些細なことだとスルーするようなこと、あまり考えてはこなかったことを元手に何かを考え、書くことを、やっぱり捨ててはダメなのではないかとも思う。そんなの自分のことばかり考えているようで、嫌なのだけど。ほら、同年代のフォロワーは、そんなこととっくの昔に分かっ(たつもりになって)て、今日の夕飯のメニューや子供が宿題をやらないことに悩んでいるではないか。……その逡巡に形を与えるのが、文章というスキルを磨くことであり、私が見出だされることだと思う。あるいは、肉体改造をして人と関わるか……。しかし、いい大人が新たに人と関わる場を持つのはひどく難しいことだ。

 三島は、肉体改造をして、文章や人生観が変わった実感を持てたのだろうか。

 早く脱皮したい五月。

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