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掌編 夜のない世界

 部屋から出られるようになった。でも、他の人の中に混じって平然と生きていけるとは思えなかった。近くのコンビニの深夜枠求人に手を挙げたのは、サメのぬいぐるみを抱きながら、来ない睡魔を待って一晩中まんじりともしないでいるのは不毛すぎるとふと思ったからで、全くの気まぐれだった。
 シフトに入る時の挨拶は、「おはようございます」で統一されていた。朝の五時でも、夜の十時でも。思えば学生時代に都下のミニストップでバイトしていた時も、夕方五時に「おはようございます」と言わされていた。全国的にコンビニには夜がないものらしい。

 私が働き始めたのは、地方都市の郊外の幹線道路沿いにあるコンビニで、駐車場が店舗の四倍の広さだった。そこに大型のトラックが入れ代わり立ち代わり入ってくる。そんなわけで、仕事を始めるときに期待していたように、ぼーっとできる時間はあまりなかった。トラックドライバー達は無愛想か極度に疲れているかのどちらかで、私は彼らの声を一発で聞き取って、正しい銘柄の煙草を渡す技術を習得した。

 私の他に深夜帯に入るのは竜田さんという男の人かオーナー夫婦の旦那さんの方で、旦那さんは大抵事務所の端末の前で動かないから、旦那さんとペアの時は一人で店の表側のことをしなければならなかった。レジと、飲み物の品出しと、ホットスナックの調理と、配送された品物の確認と。その中に突然ぽつんとする時間が挿入されると、どうしていいか分からないほど淋しくなることもあった。

 そう、深夜は私のコンビニに荷物が届けられる時間でもあった。

 荷物を届けに来るツートンカラーのトラックの人も、「おはようございます」と言って店に入ってくる。私がコンビニには朝しかないことに気付いたのも、彼の言葉がきっかけだった。伝票に品物受け取りのサインを求める彼の手は白っぽく乾燥して、指先は黒ずんでいた。
 ある時、彼と同時に客がレジに来たことがあって、その時初めてまともに手以外の部位を見た。彼は私より十歳以上年上に見え、頭頂部の髪は白髪交じりでまばらだし、後頭部には変なこぶがあるし、全く醜男の部類だった。でも私は彼と近々寝ることになるだろうと思った。
 高校の時から、妙に色気があるよねとクラスメイトに言われていた。坂口安吾かぶれのその女生徒はこういうのが天然の媚態よと言ったが、確かに私は「あ、この人」と思った人のことは逃さなかった。これは狙ったということなのだろうか。狙うにしては冴えない男にばかり告白され、殆ど断ってきたけれど、そのうちの何人かには体を許した。

 彼と会うのは私のシフトが明けた早朝で、彼に別の配送の仕事がない時に限られていた。私は汗と埃の匂いが染みついたトラックの助手席に乗り込み、一旦同じ匂いのする彼の車に乗り換えてから彼の家まで行った。彼とのセックスは良くも悪くもなかった。揺らされれば声を上げたが、不意に出てしまうというほどではない。いい声を出して彼を喜ばせようと言うよりは、自分を盛り上げるためにそうしていた。最中にそういう分析をしているくらいには冷静だった。

 彼と何を話していたかは殆ど覚えていない。このコンビニパスタが美味しいとか、新製品のカップ麺はいまいちだとか、誰と話してもいいようなことしか話さなかったと思う。彼は甘い缶コーヒーが好きだった。運転中は無理にブラックを飲んでいるので、陸に下りたときぐらい好きなものを飲みたいのだと言っていた。そういうところはなんとなく好ましく思った。
 彼と会わない時は、カーテンを閉め切った暗い部屋に戻って薬を飲み、布団に潜り込んだ。おはようございますと言って目を瞑ると早く眠りに付ける気がした。

 いつも夕方に入っていた大学生がインフルエンザに罹ったので、少し早く来てくれないかと言われたのは三月下旬のある日のことだった。その頃になると私は店の台所事情をだいたい把握していて、昨晩から朝にかけてシフトに入った旦那さんが、フルで夕方の時間に入るのはしんどいだろうと思った。私は太鼓腹の旦那さんのことも抱こうと思えば抱けると思っていたが、そういうことではなくとも、困っている人に差し出せる手があるならそうすべきだ。

 六時のシャバは予想以上に明るくて面食らった。こんなに春が近づいているとは思わなかった。深夜とは客層も違って、もちろんトラックドライバーの匂いのする人もいるけれど、会社帰りの人や母子連れ、カップルなどが多かった。

「もしかして、みちるちゃん?」

 会計の列に並ばないでもじもじしている人がいるなと思っていたら、列が途切れるのを待っていたらしい。見上げると、高校時代のクラスメイトが、会わないでいた年数分だけ年を取ってそこにいた。
 
「わ。そうだよ。」
「驚いた、今ここで働いてるんだ」
「うん。普段は深夜なんだけど」

 へえーと相手は言って(興味がありそうでなさそうなちょうどいい「へえー」だったので好感が持てた)、ねえねえ、せっかくだし今度ご飯でも行こうよと携帯を差し出した。連絡先を交換してしまってから、昼間におしゃれなカフェに誘われたら困るなと思った。彼女の前で、私はどんな顔をしていたっけ。高校のときに私がしていた表情も思い出せないし、さっきの私の顔はクラスメイトに再会した時に相応しい顔だっただろうか。

 そのままトラックドライバーだけの時間に入ると心底ホッとした。カウンターに人が来る。形通りの「いらっしゃいませ」を言って、品物のバーコードを読み込ませる。時にファミチキやコーヒーを頼まれるので、それに応じて手を動かす。余計な会話はしないが確かに人と対面している。コロナコロナとうるさくても、彼らはお金を手渡しで受け取る。もちろんペイペイで払っていく人もいる。これだけでお腹いっぱいだったが、配送が早く終わりそうだと彼から連絡が来た。私はぶっ通しで働いた眠気とお腹いっぱいなのとで朦朧としながら万年床で抱かれたが、はじめて強い快感を覚えた。勢い余ってずっと気になっていて言えなかったことをつい言ってしまった。そのこぶって一体なんなの。

 よくねえよなあと彼は言った。随分前に一度病院に行ったら簡単な手術が必要だと言われた。しかしそこではできないから別の病院を紹介するという話だったので、面倒だし休みは取れないしと伸ばし伸ばしにしているということだった。彼のこぶは危ういモラトリアムの証なのだった。

「俺のことが心配なのか」

 いや、そういうわけじゃないけどと思ったけれど言わなかった。しかし彼はそれで興奮したらしく、珍しくその日は二回抱かれたので、私はもっと朦朧としてしまった。こういう傾向は、こうさせてしまうことはあまり良くない。

 高校の友人が提案してくれたのは夜ごはんだったのでホッとした。よく考えれば、彼女は昼間仕事しているのだから、自由時間は夜になるのは必然だった。彼女は高校卒業後も他のクラスメイトと交流があるらしく、1組だった誰々が今どうしていて、誰々はH大の院に進んで、などと近況を語ってくれ、私はたしかにそういう名前の人がいた気がすると思いながら、「うわあ、そうなんだ。高校の時から賢かったもんねえ」と相槌を打った。彼女が予約してくれたスペインバルの料理はどれも程よい量で美味しくて、お酒が飲めない人用のドリンクも充実していた。三年生の時は別のクラスだったけれど、二年生まで彼女とは結構仲が良かった。文系にするか理系にするか話したり、本の貸し借りをしたり、教え方のまずい教師にあだ名を付けたり、球技大会の後一緒にパフェを食べに行ったりしたはずだった。昔の私を彼女の中で発見してこそばゆかった。

「それを言うならみちるちゃんこそ意外なんだけど」
「えっ」
「……なんでコンビニで働いてるか、聞いていい?」

 固まってしまっては気を遣わせると思って、「あっ、うん」と返したけれど、そこで止まってしまった。彼女に突っ込まれたら言おうと思っていたことが出てこない。

「ちょっと色々あって、今はそのリハビリ中」
「そっか。うん。話してくれてありがとう」むしろ言わせちゃってごめんねと彼女は言った。
「みちるちゃんはさ、みんなで居るときもあまり自分のこと言わないで、合わせちゃうタイプだったじゃん? そのくせ文化祭の準備とか、人が気付いてなかった問題に気付いて、一人黙々と直したりして」
「そうだっけ……」
「そうだよー。劇の大道具がうまく作れてなかったの、覚えてない? あれじゃ肝心の桜吹雪が出てこないって気付いてくれたのがみちるちゃんだったの、印象的だったよ。発案した○○くんは、そんなこと全然気づかないで自分の手柄にしてたけどさ」
 だからきっと会社でも無理しちゃったんじゃないかな、と彼女は照れくさそうに言った。


 私が会社に行けなくなったのは、そんな立派な理由ではない。確かに仕事もハードだったけれど、会社で不倫していて、その人とうまく行かなくなったからだ。
 でも、うまく行かなかった理由を彼女に言い当てられた気がした。もちろん不倫なんて、うまく行かないに決まっているし、うまく行けば行くほどうまく行かないのだと思うけれど。
 相手が好きだから、相手の好きに合わせていた。相手がこの漫画が面白いと言えばそれを読み、このコンビニスイーツが美味しいと言われれば二つ買って冷蔵庫に入れて彼を待った。でも、そのうちに自分だけの好きが分からなくなった。彼の好きなものをまるごと好きだとは言えないことに気付いたのが辛かった。もちろん彼自身についても。「こんな彼も好きなの」と誤魔化せないところが厳然としてあった。それが他人で、恋ということなのに。私はそんな自分が許せなくて、でも無理して相手に合わせ続けていることも苦しくて、サメのぬいぐるみの部屋に、昔の仲間が誰もいない場所に、偽りの朝に自分をまるごと閉じ込めたのだ。

 私がおはようございますの世界から出るのは少し時間がかかるだろう。しばらくは時差ボケで朦朧としてしまうだろうし。私は高校のクラスメイトに誘ってくれてありがとうと言い、トラックドライバーの彼に丁重なお礼を言って別れを告げた。
 クラスメイトとはまた会いたいと思うけれど、会ってくれなくてもそれでいい。新しい私、あるいはもとの私が、それで消えるわけではないのだから。

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