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自分自身が雑になっていくよ日記

 夏休み後半戦、全然起きていられない。

 創作を書けない、という騒ぎではなくなっている。いや、やっぱり書けてはいないのだけれど。

 子供は、どんなに昼間叱られても、寝る時は私とでないとと言う。一緒に寝室に行って、横になったらもうダメである。二十三時頃に起きる時もあるけれど、そこから起き上がって何か物を書こうとかいう気力はなく、そのまま寝てしまう。じゃあ、三時とか四時に起きて書けるかというと、それも無理なのだ。目覚ましをかけても、中途覚醒してまた寝てしまうので、睡眠の質が下がるだけだった。

 そのせいなのか、色々な物事に対する興味関心が極めて低くなっている。のろのろと本を読むこともあるけど、こんな状態で読んでも意味あるの? という感じだ。書けないなら読むのが正しいと思うが、焼け石に水な気がする。夏休みが終われば元に戻るのか。でも、戻った先が楽かっていうと、そうじゃないのでは、今の方が楽なんじゃみたいなことも考えてしまう。

 というか、夏休みがちゃんと終わるか分からなくなってきた。取り敢えず九月の前半は学校が短縮になるらしい。起き上がれないのは疲れているからなのだから、寝られて良かったとこの状態を肯定できればいいのに、夜中何度か薄く覚醒して、それでも起き上がれなくて朝そのまま目覚める時、ものすごく落ち込んで淋しいような気持ちになるのはなんとかならないんだろうか。

 

 一方的にフォローしている人の記事に、「人は誰しも、本当に好きな人(それは実在する場合もあるし、イデアである場合もある)を他の人の上に投影しているから、その他の人を好きだと思えたり、親切にできたりするんではないか」ということが書いてあった。その人は、人を好きになったり親切にしたりするとき、

①好きな人の投影込みで世界を見ているから、その人自身を見てはないけど、好きな人のイデア込みで誰かを親切にする場合と、

②世の中に好きとか愛とかはない世界観なので、他者にもまるで興味を持てないが、他者をありのまま見て、表向き親切に応対する場合

 があるんじゃないかと言っていて、なるほどと思った。

 同性でも異性でも、自分の好意が受け取られない時、それはただその人が受け取らないというだけの話だ。だから、そのことだけで世界を灰色に塗りつぶす必要なんてない。それなのに、私の世界はもうずっと灰色のままで、どうしたことかと思っていた。

 しかしそのnoteに出会って、出来事は些細なことだったとしても、それで自分の中のイデアが破壊されてしまったのなら、②の状態になるのは自明ではと思ったのだった。というか、元々の私の世界に対するスタンスは②に非常に近かったのではないかと思う。平常運行に戻っただけか。いやそれはそれでなんか人間として欠損しているのではないかと思うけれど。

 そのnote主は、②よりは①の方が、たとえその人自身をちゃんと見てないにせよ、愛がある世界なんじゃないかと言っていて、私もそう思う。しかし、私が①の世界観を再び持てる時は来るんだろうか。

 

 布教つぶやきはもう消してしまったけれど、「プリンタニア・ニッポン」がめっちゃいい。一冊が高いし、見た目がオシャンな漫画は肩透かしを食うことも多いから、一、二巻まとめて買うのは博打だなあと思ったのだけれど、逆に一巻だけ買ったら不完全燃焼になるなあと思って迷ったのだ。でも今回は買ってよかった方に結果が転んで良かったし、「円城塔が推す!」という帯を信じてよかった。円城塔氏の小説は読んだことがないのだけれど。

 主人公(?)の佐藤は、こんな社会(詳しくは本を読んで欲しい)の中でもなんとか生きている。私もおそらく気質的には佐藤に近くて、佐藤っぽく割り切って生きていれば変に淋しくなったり、自分を責めたり、自分を責めているようで実は他者を責めていることになったり、しないのにと思った。やっぱり私は人とあまり関わらなくてもなんとかなる(こともある)小説家になるべきなんじゃないかと思う。佐藤は集団作業に向かないが、一応ある程度の適応を見せているのだし。

 佐藤が作中で経験するあることについて、「思考はいずれ気質に影響する、自分を大事にしない思考は、他者にも向かうことがある」というセリフがあってドキッとしてしまう。自己肯定感が低い人は自分を大事に出来ていないとかよく言われる。じゃあ、私は自分を大事にしていないのかというと、そこまで自傷的でもないと思うんだよなあ。どうも、「自己肯定感が低いことは良くないこと」と思わされすぎている気がしてしまう。それは、自己肯定感が低い人を慮って言っているのではなく、自己肯定感高くあれという同調圧力のように感じるのだ。これで多様性が大事なんて臍が茶を湧かすわ。人の心の中のことなんてほっといてくれないかな。あれ、このシーンを読んで落ち込んだのに、いつの間にかぷんすかしている。

 この漫画はプリンタニア・ニッポンのかわいさを愛でる漫画だと思うのに、私は切ない気持ちになって泣けてしまう。そういう作品を選びがちだから、やっぱりMなのかな。ゴールデンカムイみたいな頭のいかれたポジティブ漫画も買ってバランスを取っている。


 Adoをたまに聴くようになった。コメント欄に「本当にAdoさんは【歌い手全盛期に歌い手を聞いて、歌い手が好きで、歌い手に憧れていた子が順調に歌唱力、歌い手特有の表現を磨いて育って極まった歌い手】って感じが」するとあった。

 なんていうか、歌い手に限らず、小説家とかもそうではと思うのだけど、順調にルートを辿って行った人しかデビューできない社会にどんどんなっているんじゃないかと思う。これはアーティストに限らず、学校教育だってそうで、自分達の祖父の時代は貧しくても旧帝国大学に入り込むことが出来たり、あるいは中卒でも会社を興せば成りあがれたりするみたいなのがあったんだと思うけれど、今や大学入試ですら、入試の点数が良ければ合格するという一発逆転が起きにくい制度に変わりつつある。センター・二次方式ではそれが有り得たのだが。

 Adoを聴くようになったのはYouTubeでゴールデンカムイの面白映像をみるようになったからだ。アマゾンプライムでオリジナルの、著作権も大丈夫なのを観られるのだけれど、海外の人が違法にアップロードした、長くても二分足らずの、その人の好きなシーンまとめを観るのは作業中のいい気晴らしになる。そのコメント欄に、「My precious Ogata is so hot ahhh」ってのがあって、ああ、海外にもオタクがいるんだ、オタクっぽさは英語でも伝わるもんなんだと思って、なんだか感心してしまった。


 そうそう、エッセイもnoteに載せる程度の短編も分け隔てなく書けるとか偉そうなことを書いていたけれど、日記となるとずっと腰が重い感じがしていた。それは日々の内省をする余裕すらなかったからかもしれないけれど。今日は他にネタも浮かばないので、ぽつぽつ書き溜めていたこの日記を排出する。


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