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読書記録 野ネズミとドングリ

 noteを書くと色々な欲が出てきてしまうので、もうそういうの嫌だと思って書かないでいたら、ますます何も書けない気がするので、これからしばらくの間、毎日投稿を復活させてみる。できるかな、どうかな。

 御存じ「ゴールデンカムイ」で、アイヌの思想として、「人間が扱えないものをカムイ(神様)とする」というものが紹介されていた。たとえば人間の手ではナイフのように物は切れないから、マキリ(アイヌの短刀)にはカムイが宿っているし、雷や動物にも同じ理屈でカムイが宿っている。

 科学技術が発展して、たとえば雷の仕組みがおおよそ分かったり、物が原子でできていることが分かったり、ゲノムなんかが解読できたりするにつれて、一見、人間が扱えないものは減ったのだろう。マキリなどの道具は、人が扱えない客体ではなく、人が作ったものであり、人の体の延長であると捉えられるようになったのかもしれない。だからアイヌにせよキリスト教にせよ、信仰が弱まるのは致し方ないことであった。

 しかしながら、この世のことを人間は早合点して分かった気になっているだけなのだ。たとえばドングリ。ドングリは野生の動物にとって良い食料であるとされてきたが、本当にそうなのだろうか。

 観察のために捕獲した野ネズミに餌としてドングリを与えたところ、その野ネズミがほぼ全滅したというところから話は始まる。観察の条件が厳しかったから、ストレスで死んだのだと著者は簡単に考えていたのだが、研究の指導を受けていた人に「君は(研究の)センスがないね」と言われた。ドングリにはタンニンという、植物にはありふれた物質が含まれているが、単に消化を阻害する物質だと考えられていたそれが、実はかなり大きな役目を果たしていたことが分かったのだった。

 この本の中で、一番興味深かったのは「世界はなぜ緑で出来ているか」という言葉だった。

 この問いは、著者のように野生動物や植物を研究対象としている人には普遍的な問いなのだそうだ。植物は、能動的には個体数調整を出来にくい生き物であるのに、そして、植物を餌にする動物は数多くいるのに、なぜ植物は食い尽くされないのだろうか。

 その問いに対する仮説は二つあって、一つはトップダウン仮説という。つまり、草食動物を喰う肉食動物がいるので、植物が食べられ過ぎないという説だ。実際、オオカミが絶滅したアメリカの森では、シカなどによって植物の食害が進んで森が荒廃していたが、よそからオオカミを連れてくると森が回復し、安定したということを近隣の動物園のパネルで知った。これを読む人にも感覚的に馴染みのある考え方だと思う。

 もう一方は、ボトムアップ仮説だ。植物は実は、餌として考えた時に利用しにくい体をしているというものだ。消化しにくかったり、ある種の毒を保有していたりすることによって、食べられにくくしているのだ。植物は、ただ動物を守り育てる優しいゆりかごに甘んじているわけではない。

 動物と植物双方の緻密な体の設計は、人間が「どうせこうだろう」と思っていたようなことよりはるかに複雑で、人間からの傲慢な物言いになるが、「よくできている」のである。

 これを読んだとして、実生活にためになるわけでもなし、創作に生かすにはこの人に直接取材するなどしないと立体的にはならないだろう。銀行の待合でこれを読んでいて、「私はなぜ白昼堂々(?)、アカネズミの生態についての知識を夢中で仕入れているんだろう」と変に我に返ったりしながら読んだのだけれど、面白い本だった。

 毎日投稿一日目のネタはこんなところで。というか結局本来スタートしたい日付をまたいじゃったし。

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