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村上春樹『女のいない男たち』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2023.02.12 Sunday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

カンヌ国際映画祭・アカデミー賞・ゴールデングローブ賞・日本アカデミー賞などで話題となった2021年の濱口竜介監督✖西島秀俊✖三浦透子の映画『ドライブ・マイ・カー』の原作本です。既読の作品でしたが(記憶もあやふやなこともあり@汗)、映画の鑑賞後改めて読みたくなったこともあり、再び手に取りました。

「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」を描いた6編の短編集です。(映画は、「ドライブ・マイ・カー」の登場人物たちを設定に借りながら、「シェエラザード」「木野」のエピソードも投影されていました。ほかに、「イエスタデイ」「独立器官」「女のいない男たた」が収録されています。)

「木野」は、初読でも一番好きで印象に残っていた作品でしたが、やはり今回もこの作品を一番面白く読みました。村上春樹さん的メタファーを織り込みながら描かれる、「痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった」主人公木野の物語なのですが、妻を失った“喪失感”に目をつぶり続けていた男が、自らに対峙し、「おれは傷ついている、それもとても深く」と認めるまでの時間は、映画ですべてをそのままに受け入れることを選ぶ主人公家福の姿に重なっていきました。

小説に触発された濱口竜介監督は、「奥行きと重みを失った自分の心が、どこかにふらふらと移ろっていかないように、しっかりと繋ぎとめておく場所」として、家福には「マイ・カー」を用意し、「いったん自己を離れ、また自己に戻る」俳優の再生の物語を完成させたのでしょう。そしてまた、それぞれの短編が、「おれ自身が孤島なのだ」とでもいうような“喪失感”を抱えながらも、(積極的ではないながらも)目を背けずに己であり続けようとする「裸の一個の人間」が見える小説となっている点も、映画の到達点に繋がるものを感じずにいられませんでした。

僕らはみな同じような盲点を抱えて生きているんです。
他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない。
回り道みたいなものが必要だった。
どこかで現実と結びついていなくてはならない。