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男のゆくえ


 アニーズ通りは、灰色の石畳で埋め尽くされた灰色の町の、一番貧しいはずれにある。そこの街灯も人々も、不安な様子に満ちている。冷たい緑色の光を放つ街灯は、いつもアニーズ通りを一定の間を空けてぼちぼちと並んでいた。
 しかしその晩は少しだけ違った。ある一本の街灯の下に、さらに冷たいものがあった。


 男はその朝、朝から吐き気と頭痛に震えが止まらなかった。それというのも、昨夜は飲んだくれてしまい、飲み屋からは追い出され、常連客とはひどい喧嘩になり、それ以降記憶をなくしてどうにかこうにか家に帰ってきたのである。まさしく二日酔いの症状で、さらにどこかで風邪の菌をもらってきたのか、気管支の調子も思わしくない。
 男はアブナー・マクレンという。一人暮らしの借り住まいで、二ヶ月の家賃の遅れが常時あり、五十過ぎだというのに恋人すらおらず、趣味は少しくじをやる程度。なにが楽しくて生きているのかと問われれば、何も楽しくはないが死ぬのは辛そうだとしか考えていない者である。

 アブナーはかろうじて布団から起き上がると、昨夜の格好のまま着替えもせずに小さなスツールに腰掛けた。呆然と座りしばらく考え事をするように一点を見つめていたが、その実まるで昨夜のことが思い出せない有様だった。思い出そうとすると頭痛は増すばかりで、酒に酔って喧嘩したことは分かるのだが、どこで飲んでいたのだったかは分からない。

 こんな状態だったが、窓の外に見えた青空は一瞬で彼の心を解きほぐしたように思えた。
 首筋も痛んだが無理やり伸ばして、表の通りを北へ、視線を向けた。その道をしばらく行くと小さな霊園がある。普段は穏やかな見晴らしの良い丘だが、夜になるとこのあたりは住人以外は誰も通らない。まして町へは反対方向なので、昼間でも人通りは多くはない。
 アブナーがそんな道を、わざわざ首を痛めて覗き込んでいるのは、灰色のくすんだ道で、灰色のぼろをまとった男が、あとずさりしたり小走りになったり忙しなく行くのが目に入ったからである。
 それが他人であろうと知人であろうと行動は奇妙で笑えたが、まさか、それが昨晩どこかの飲み屋で行きあった常連であるとは、アブナーは想定外だった。

 外の男がふいに警戒するように顔をこちらに向けた。その途端、男は突然何かに追われるように、慌てて墓地の方へと駆け出してしまったのである。
 アブナーは彼の様子を見ながら、瞬時に昨夜のことを思い出した。あの男の名前は確か、ボニーズ。ボニーズ・オドネルである。彼は昔、スリかなんかをやって前科を持っていると自慢げに語っていた。しょうもない話だとその場では誰もが笑ったが、アブナーはボニーズにどこか羨ましさを感じずにはいられず、何度もその話を聞いた。
 今思い出せば、そこまではひどくくだらない男のプライドを誇張しただけのものだったのだが、別の男が会話に入ってきて……。
 そこからはまた思い出せそうになかった。

 それにしても、ボニーズは可笑しなことをしていた。怯えていたようにも見えるほど挙動不審に、墓地の方へと走っていってしまったのだ。
 アブナーは体の痛みと吐き気、頭痛などの体調不良から逃げ出すように、そして墓地へと消えたボニーズを追うように、安アパートを飛び出していったのだった。


 墓地にたどり着くと、目的の人物は植え込みに隠れるように、並んだ墓を観察していた。
「やあ、ボニーズ」
「ひゃあっ」
 情けない叫び声をあげて、男は同時にこちらを振り向いた。昨夜あれだけ呑んだというのに真っ青になっている。具合が悪そうだが、それは二日酔いのせいではなさそうだった。
「ア、アブナー。昨日も会ったのにまた会うなんて奇遇だな」
「それはぼくの言う台詞じゃないか。どうしたんだい、汗をびっしょりかいて」
「うるせえ! もう俺たちは赤の他人だ。あっちへ行ってくれ」
 なんだ、突然勝手なことを言いやがって、とアブナーの口先が悪態をついた。
 ボニーズは小汚いオリーブグリーンのジャケットに丸まるように首を引っ込めて彼を無視すると、辺りをきょろきょろと見回しながら奥へと入って行った。飲み屋で会うときのニヤニヤ笑いや、自信たっぷりの口ぶりは微塵も感じられない。やはり何かを警戒しているような動作。
「付いて来るんじゃねえよ」
 気持ち悪さを紛らわそうと丘を登っていても、小さな霊園なのでどうやったって彼は視界に入ってしまう。付いて行っているわけではなかったが、あえて別の方向へ行こうともしなかったことも事実なので、アブナーは男に向かって、黙って肩をすくめた。
 遠くで男が叫んでいる。
「ふざけるな! お前、俺を疑ってるのか? 尾行してるのか? だったら悪いが俺は犯人じゃねえ。なにもしちゃいないんだからな、犯人になることはあり得ないのさ……」
 その後は聴こえないが、その後は聴こえなくても気になる箇所があると聞き取れなくなるようなこともあるだろう。まさしくそれだった。
「ちょっと待てよ、なんの話だい。犯人って?」
「でかい声で言うな!」
 ボニーズは再度、周りに誰もいないかを確認して、足早にこちらへやってくると、無言で霊園の出口へと引き返してしまった。付いて行くしかないのだろう、仕方なしにアブナーはその丸まった中年男の姿を見失うまいとして、追いかけるのだった。

 二人の足は通りを歩いて、町のほうへと向かっていた。その間、前科者の顔はさらに青さを増していく。会話のつもりなのか独り言なのかアブナーに、しきりに「驚くことはねえのさ、驚くことは。俺は無関係なんだからな」といい続ける調子で、飲み屋で会うときの様子とはなにもかもが違っていた。一応、アブナーは彼のことをゆがんだ見方ではあったが尊敬していた。自分はただ生きているだけだというのに、この男は少なくともなにか行動を起こしているのだ。人の財布をすったことは犯罪だが、その行動は、生命力を感じさせるのである。
 町が近づいていくにつれ人の姿が多くなってきた。ますます前科者は前科者らしさを帯びていく。
と、ある一角だけ人垣ができている。警官が数人おり、何かが起きたことは明白だった。蒼白した顔のまま、ボニーズは俯きがちに耳打ちをした。
「おい、アブナー。ひとつ約束しろ。見ても、何も言うんじゃねえ」
「わかったよ、わかったから」

 アブナーは、ひとり路地裏へ向かった彼から離れて、わいわいと集まってくる群衆の外から覗き込んでみた。
 そこにあったのは、昨夜、飲み屋でボニーズと話しているときに割って入ってきた、あの男の冷たい亡がらであった……。

 思い出したような気がした。明け方まで飲んでいたあの時のことを。
 男は、大金持ちとまではいかないが、そこそこの裕福な生活をしている者だった。スリの話で盛り上がっていた二人は、資産家の男がこんな薄汚い店で飲んでいることが信じられずに、面白半分で話に交えたが、聞いているうちに男が稼ぎの半分を詐欺で儲けていることが分かった。
 三人はしばらく和気藹々と見栄話を続けたが、帰り際、ボニーズが財布を確認したとき、もはやその白物は姿を消していたのである。
 アブナーは男が盗みを働いた瞬間を見ていたが、怒りで真っ赤になるボニーズにこう言った。
『あいつを襲って、こっちの手取りを倍に、いや、倍以上にするんだよ。向こうがその手ならこっちだって同じさ……』
 そして、奇襲したのだ。いや、正確にそこの記憶は残っていないが、彼は確実に街灯の下で冷たくなっていた。

 ただ、昨夜の飲み屋の店主の姿もあった。警察に事情を聞かれているようで、身振り手振りを交えて説明しているらしい。目の前では景色のように、警官達が人々を掻き分けて白い布を男にかぶせ、担架に乗せて運んでいった。まるで無声映画のようだった。


「僕たちは、人を殺しちまったのか! ボニーズ、おい、覚えているかい?」
 二人は、アブナーのアパートの影に身を潜めて、これからのことを相談しあった。もはやそうすることしかできない。逃げるか、自首するか、どちらかしかないのだ。
「アブナー、いいか、俺たちはもう共犯者だ。でもあいつだって犯罪者なんだ。あいつは詐欺と窃盗の……」
「でも殺すことはあったのか? 僕は財布さえ取り返せればよかったんだ」
「財布……。財布は、どうしたんだっけ。あいつから取り返したんだっけ。くそっ、酔っていたせいでなにも思い出せない」
「やっぱり僕たちはあの金持ちのじじいをやっちまったのかな。人生ってつまらないもんだな、まったく。これから先生きて行くのが嫌になっちゃったよ」
「俺もさ。人殺しなんて生きていてもしょうがねえよ」

 そんな会話をしているときだ。恰幅の良い警官二人が、通りを歩いてくるのが、遠くに見えた。

「もう無理だ。墓地へ行くか? それとも、僕の部屋へ入るか?」
「墓地へ行こう! 部屋じゃ見つかるよ」

 足早にアパートを立ち去った二人の影は、かろうじて警官たちには見えていなかったようだ。
 錆びた鉄筋の、かなづちを振り下ろしたような音が奇妙な軽さで、静かな町の隅に響いた。
「アブナー・マクレンさん、いますか」
 ひとつの扉の前で一人の警官が叫んだ。
「ノックしてみよう……、おや、開いているじゃないか。無用心だな…………う、うわ!」
 警官二人が見たものは、同じようなぼろ服の男二人が、お互いに重なり合うようにして倒れこんでいる様だった。
「アブナーさん、どっちだ一体」
 上に乗っていたほうの男の体を仰向けにして、今度はもう一人の警官が叫んだ。
「し、死んでる!」
「どうやら、もう一人はS横丁のボニーズだ。話を聞きに行く手間が省けたな。これは喧嘩でもして、相打ちってところだろう。まったく、今日は死人が多いな」


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