ヤン博士の数奇な人生
ヤン博士は孤独な男だった。好きな女性とは結ばれず、理想の結婚生活は理想のままに終わってしまう人生に嫌気がさしていた。
かなしさがもし、キャンディのように口に放りこめるものだったなら、憎しみや恨みは溶けてなくなり、人々はしあわせに暮らせるかもしれない。
そう考えたヤン博士は、まず、かなしみを抽出する機械を作ろうと考えた。脳波を測定する機械に自分の体をつなぎ、かなしみを感じた時の数値を計測。繰り返すうちにかなしみの大きさと振れ幅が判明したので、今度はそれを抽出する。
最新技術の特殊製法で作り、完成したキャンディは、最終的に結晶化させて濃度を濃くした。そうすることで、じわじわとかなしくなるよりもメリットが多くなった。思い切りかなしみ、そして短時間で回復できるというわけだ。
ヤン博士は、測定器で毎日の気分を計測した。可もなく不可もない平常心の日でなければ、かなしみキャンディの効果が判断できないと考えた。
そこで、ゴミ出しや騒音や知人からの問い合わせなど、なにも煩わしいものがない土曜日に決行することが決まった。
ヤン博士は土曜日になると、早速口にキャンディを放りこんだ。まずはキャンディのしょっぱさが、口の中全体に広がった。かと思うと、ほんの少しの酸っぱさが鼻の奥に感じられる。不思議な味だった。
味を堪能していると徐々に心の中に、一人の女性が現れた。
「だれだ?」
「あなた、わたしよ」
それは、かつて妻だった美しい女性だった。別れた妻のことなど考える暇もなく研究に明け暮れていたヤン博士は、その登場に驚くばかり。
妻はにこりと微笑み、手招きした。
「懐かしいわね、こんな風に会えるなんて」
「そうか、私は結婚していたのだな。未婚だとばかり……」
「やあね、忘れてしまったの?」
「まさかと自分でもびっくりしているよ。でも心の中のお前と、どうやって会話しているんだろう?」
「それは……」
妻は口ごもった。
「それは?」
「あなたの心の中にわたしがまだ存在していたってことよ」
妻の神妙な顔に、そうかと納得するヤン博士。
「あのとき別れたあなたは、わたしや娘のことなんて全然気にしていなかったのに。皮肉なものね」
妻だった女性はかなしげに目を伏せる。
「私に娘が? そうだ、そうだった。私には可愛い娘がいて……授業参観も見に行ったことがあったな。なぜ今の今まで忘れていたのだろう?」
ヤン博士が頭をひねっていると、どこからともなく女の子の声がした。
「パパ」
顔をあげると、今度は妻の隣に、可愛らしいおさげをした娘が佇んでいた。目元と鼻は妻に似て、口はどことなくヤン博士に似ている。
「おお、なんと可愛らしい、私の娘。すまない、今まで忘れていたなんて親失格だ」
「そんなことないわ。こうして思い出してくれたんだもの。さ、顔をあげてよパパ」
娘の穏やかな声になにやら言葉にしがたい安堵感のようなものを感じた。自分のふがいなさを受容してくれる優しい声色に、女神に微笑まれたかのような、あたたかい気持ちが心を満たす。
「これからは、一緒にいてくれるのかい?」
涙ながらにヤン博士は尋ねる。と、その時、妻と娘の姿がぼやけてきていることに気づいた。
「いやだ、待ってくれ。行かないでくれ。今までの私の行いは償うからーー二度もお前たちを失うなんて耐えられない」
「ごめんね」
妻の声だ。姿は曖昧になっているが、声は鮮明になったような気がした。
「もう会えないの」
「バイバイ、パパ」
そこで全てが真っ白に塗りつぶされ、意識を失った。
目が覚めたヤン博士は、自分の目尻にあたたかい雫が伝っていることに気がついた。頭を振りながら体を起こし、今あった出来事を思い返す。
大きな過ちと、過ちを許してくれた優しい心の持ち主。確かに許されたような気がしたが、先ほどまで目の前にいたのはどこの誰だったのか全く思い出せない。
窓の外を見やり、つぶやく。
「洗濯物をとりこまなければ」
ヤン博士は立ち上がると、小雨の降り出した空の下で揺れる洗濯物をしまう。
そういえば、あのキャンディを食べる前のかなしみが思い出せない。それどころか、自分はそこそこいい人生を歩んでいるような気がした。妙に気分がすっきりとしていて、これこそキャンディの効能であると感じられた。
いい効果があったものだ。ヤン博士には人生がポジティブなものに思われた。実験は成功し、これは商品になる。ただ、キャンディをなめている間の記憶がない点だけが気になるがーー。
洗濯物を下ろした後のベランダから、桃色の傘と黄色い傘がふたつ、自分の研究所の前で立ち止まっているのが見える。
「客か、珍しいな」
ヤン博士は慌てて、珍しい客人を迎えにいく。
ーThe ENDー
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