見出し画像

僕はこうするのがよい、僕はこうするのがいい。 2020/12/23の日記

 とある少年の夢を見た。彼の言動や思考は社会には通用しないものとして扱われ、支援を受けながら生活をしている。それを支えるのはかなり若い父親だったが、少年の心情にはあまり深く入り込まない。少年はたしかに絵や文章、食事等に気持ちをちりばめるんだけど、読み解く人はいなかった。
 その夢での自分の役割は支援者。父親が勤めに出る間、少年の生活をサポートする仕事をしていた。その中で、彼の落としたなにかのパーツを拾いながら、なにを彼が訴えているのかを考えていた。だけどやっぱり僕のような部外者(家族でないという意味で)では、彼の心を開くことはできなかった。父親はへらへらしながら「でもまぁ僕はやることやって彼が自立してくれたらいいかなぁ」と話している。僕は父親の支援者になることを決めた。

 そこで目が覚めた。

 とある授業のテストがオンラインにて実施された。試験時間は10:40~12:30の110分。前日はそれに備えて日付が変わって30分後にはお布団に入っていた。

 起きたら12:30だった。闘いの火蓋が切って落とされたくさい。

 とりあえず担当教員と学生課に連絡することにした。この授業には結構力を入れていたので、もはや悲しさより、いない観客が喜劇だと思ってこの部屋を観に来ているような感じがして、僕もそっちへ行って笑ってやりたかった。

 しかも今日は13時から写経の体験と学校にある観音像に念仏を唱える会があったのでそれにも遅れてしまった。和歌山から来た友人と一緒に参加する予定だったが、しばらく一人にしてしまった。ごめんとは言ったけど、多分僕が行かなくても彼は参加していたと思う。それに、僕が出来なかったいろいろを彼に謝罪して擦り付けるのもよくないことだと思う。

 試験に関しては、あまり深くはかかないけど、しかるべき処置の上、追試を受けられることになった。追試を受けられる理由は揃っていた。

 担当の先生と話したあと、あらゆる思考が巡り巡ったけど着地する場所がなくてずっと飛び回ってた。だけど写経を始めた瞬間まとまった。心を無にするための、とはいうけど、こうやって手を動かしてひたすら文字を書くという単純な動作は、スムーズに考えをラリーさせていく時間を作ってるのかもしれない。

”自分がしたいこと”と”自分ができること”を自覚し区別することは重要であるというのはよく聞く話である。

 例えばその二つが両端に書いてある用紙があって、自分の手には自身を模したぬいぐるみがあったとする。そうした場合、僕は人形をふたつに割いてひとつずつを文字の上に置くと思う。
 つまり僕は少しだけその二つの違いをわかりはじめているような気でいて、その体験はもう片方の自分には到底理解できない距離にあったり、散らばった毛糸や綿を通じて理解できたりすることがある。
 そういう作業には、ぬいぐるみながらも痛みが生じるものでなかなかつらい。その後はわりと楽な場所を見つけたりするんだけど、僕は雑だから完全にちぎれたりする…。

 今回の試験に関しては、ちぎれて散らばった糸くずを先生が少し繋げ直してくれたような気がした。わかりやすく言ってしまおうかと思ったけどやめた。

 あと、逆に誰かがぬいぐるみを割くためのはさみを渡してくれたりすることもある。危険だけど触りたくなる。これは一か八かすぎて面白い。
 この話を詳しくすると差別的だとも言われかねないけど、これは僕が僕という人形を操る上での話だから他の人の解釈は関係ない。

 自分のできないことを支えてもらうために、できることをする、という自分がしたいことをできるようにするための環境づくりの話でした。がんばろう。

 見出し画像は、お昼に食べたくら寿司でびっくらポンを当てた時の商品。その顔でカプセルから覗いているのずる過ぎる。

 受付も案内もレジも無人になっていて、回転むてん丸のキャラの声を聞くことができた。むてん丸の声は結構トーマスに聞こえた。友人は首を傾げていたけど。僕は人の声を聞きわけるのが得意でないらしい。大好きな声の人もいるけど人が好きだから声も好きなのかもしれない。

 タッチパネルで注文を取る方式なのだが、韓国語に言語設定を変えて解読しながら注文した。韓国語になった途端注文したくない見た目のものがはっきりわかって面白かった。

 人H 0Tを組み合わせて「海老」になることと、OIで「い」、スト0と書いて「枚」になることだけ覚えた。つまり皿の枚数の単位がスト0なので、めちゃくちゃストゼロ空けてる人になった。友人と合わせて計22スト0。

 友人を後ろに乗せてnavi110氏を運転したけど楽しい。二人乗り。家についてからは芸術療法のレポートについて話してた。(友人は別の大学だがこちらの学科に興味を持ってくれている。)
 かなり前にこの日記ャヲ。で書いた丸で家族を表現する芸術療法のひとつについて、あたらしい見方を得たのでよかった。

 バウムテストという、木を1本描くテストがあるんだけど、それの事例を見ていた。ヤシの木を書く人が稀にいるそう。そんな人に出会ってみたいしなりたいとふたりで思った。だけど、そういう珍しいもの見たさに研究を続けていたら他の見慣れた木を描く人たちの微細な違いとかを感じ取れなくなっていきそうで、分析家としては良くないのかもしれない。こういう意識だけ持って、面白い木はそれとして楽しむことにした。

 文章にしたら長いけど、かなり体感が短い一日だった。おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?