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タニシとぼく

命を取捨選択できるいきものに生まれてしまってかなしい。
植えられたばかりの稲の若芽を食むジャンボタニシを見つけたので捕まえた。枝を箸みたいにして挟んで、陸地に上げてやった。
ジャンボタニシは外来種だ。大食漢で手のつけようがない。卵には毒だってあるし、見た目も可愛くはない。食べられるわけでもない。
もう一匹つまみ上げて隣においた。じっと危機が去るのを待って、動かないタニシ。
食い破られた稲の葉を見る。わたしはこの葉がちぎられるのを見ていた。私が手を出したとき、まだ繋がっているように見えたそれは、タニシが引き剥がされた途端水に浮いてしまった。別に救おうと思ったわけでもなかったのになんだか悲しくて、むなしかった。
暮れていく空が田んぼに写っている。絶えずかすかな風があることがわかる。雲が震え、色が混じり合っている。
タニシをどうするか、考えた。石で潰そうか。踏んで砕こうか。けれど一生懸命に葉にかじりついていたその姿を見ていたので、どちらも選べなくなっていた。
別にここに来たくてきたわけじゃないのに。人の勝手で連れてこられて、人の勝手で殺される。かわいそうないきもの。どんな場所でだって生きていけるように、雑食で丈夫に育ってきたのに。しぶといぶん目の敵にされて、殺してもいいと焼印を押されている。こんななんでもない小娘にまで気まぐれで命を奪われかけている。かわいそう。かわいそう。平和に生きてるだけなのに。
けれどこれらを放置していたらこの田んぼを育てている農家さんは困る。私の目の前に転がる1匹2匹、死んだところで田んぼ全体にはなんの影響もないだろう。けれど100数えるのだって1から始まるのだし、倒せるやつは倒しておいていいはずだ。ジャンボタニシはまだたくさんいる。ここで善意にかられてこれらを殺しても、田んぼが助かるわけじゃない。だけどその1匹がいずれお米を実らせる小さな芽を無遠慮に咀嚼しているのを見たのだ。命を奪える範囲にいた…。
そんなことを、ずっと田んぼを見ながら考えていた。
エゴで命を奪ったり奪われたりできる人間という生き物に生まれてきたことが悲しくなった。私という個体が嫌になった。けれどもよかったのかな。人間の中にはこんなふうに、手のひらで包んでしまえるような生きものの生死で一喜一憂するものもいる。私自身が証している。だから人間に生まれてきて、よかったのかな?人でなかったことでもあったかのように、本当にあるいはそうなのか、一人でぶつぶつつぶやきながら、田んぼのそばに座り込んでいた。
私の心の幼さには見合わない図体。おとなになってしまうと悩むことや不思議がることを許されなくなっていくようで、でもそれは周りの大人がそうなだけなのかな。研究職とかは不思議がるのが仕事だもんな。けれども、けれども、やっぱりこういう“どうでもいいしどうにもならないこと”をずっと考えているのは…だめなことなのかな。誰も聞いてくれないってわかっているから。思ったことが全部口から出て風に溶けていく。涙も少し出る。田んぼに落ちたら、きっとその部分の水は塩分濃度の違いで一瞬もやもやして、すぐ澄むのだろう。なにも変えられない涙を袖に吸い込ませた。
タニシたちは動き出した。ゆっくり起き上がり、水中より緩慢な動作で必死にコンクリートの上を這う。日差しをたっぷり浴びたコンクリートは夕暮れでもまだ温い。人の身体ではもう熱くも感じないが、水生生物には拷問だろう。
田んぼの方向、水辺の位置、わかるのかな。残酷な好奇心が首をもたげた。ぬるぬると動くタニシは、ほんの5cm程度進むにも苦労しているように見えた。けれど方向を変えて、ちゃんと田んぼに、向かおうとしているようだった。途中で乾いたアスファルトが辛くなったのか、自分が落ちていた場所の湿り気に戻ってしまったが。
一度捕まえたものを放すのは放流だ。なので犯罪かもな。タニシを田んぼにぽちゃんと落としてやってから思った。エゴ。捕まえて殺そうとしたのも、焼けたアスファルトにおいたのも、殺せず稲が死んでいくのを選んたのも、エゴ。全部自分で決めなければならず、自分で決めればなし得てしまうことのすべてが気持ち悪かった。かなしい。涙で視界が滲んだ。さみしい。世界に一人ぽっちのつもりでいて現実は散歩の人の視線が痛く刺さる。孤独とは贅沢なもの、得難いものだとおとなのからだのなかでかなしみがゆれている。
水の中のタニシはゆるゆるとまた稲へ向かっていく。


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