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新美南吉「最後の胡弓弾き」

本書を読むキッカケとなりましたのは、福田尚弘さんの新美南吉の作品に関するnote記事です。
新美南吉という作家は、わたしには馴染みがなく初めて聞く名だったのです。
福田尚弘さんの解説記事から、興味を覚えて幾つかの作品を読んでみました。
そのなかでも少年を主人公にした作品に、他の小説家や童話作家とは異なる独自性があることに感銘を受けました。

新美南吉の少年を主人公とした小説では、久助君と仲間を登場人物としているものが有名でが、本書は少し異なります。
あらすじを以下に記します。

主人公の木之助は、胡弓が好きで12歳のときから習うようになり、旧正月には従兄の鼓を打つ松次郎と村を出て町まで門付けに行くこととなった。
大きな屋敷の味噌屋のやさしい主人に贔屓にされて、毎年必ず顔を出した。
歳月が流れ、ある年の旧正月に松次郎から「もう門付けは流行らないから行かない」と言われ、木之助はひとりで行くこととした。
最後には必ず味噌屋に行き、老人となった主人に胡弓を聞かせた。
それから数年経って、木之助の父親が旧正月に亡くなり、翌年に木之助も患って門付けに出られないときがあった。
その翌年の旧正月に木之助は具合が悪く、家族に止められたが、30年にわたり続けてきた門付けを止めることができずに、どうしても行きたくなり門付けに出た。
しかし、味噌屋の主人は木之助を待ってくれていたが、前年の夏に亡くなっていた。
以前に見知っていた女中から声をかけられ、遺族の厚意によりご仏前で胡弓を弾いた。
最後の聞き手を失ってしまった木之助は、古物商に胡弓を売ってしまい、直に後悔して買い戻そうとするが叶わなかった。

新しい時代の進展から取り残されてしまった哀れさが滲みでています。
いつの時代でも、それはあるのではないでしょうか。
新美南吉の「おじいさんのランプ」でも、同じように感じました。
電気が通ったためにランプが売れなくなってしまったのです。

現代では、魚屋さん、八百屋さん、肉屋さん、荒物屋さんほか、皆そうです。
個人のお店は姿を消してしまいました。
たまにそんなお店があると、わたしは妙に懐かしく思います。
そして二言三言ですが、お店の人と会話します。
何気ない会話ですが、ほっとすることもあります。
時代の流れで仕方のないことですが、郷愁を覚えます。

他の作品も含めて新美南吉の作品は、しみじみとした寂しさや哀しみの読後感に浸されます。


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