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クラウド 増殖する悪意

はじめに

こんにちは、dZERO新人のHKです。今回は、2009~2013年に雑誌、新聞、WEBに掲載された原稿に書きおろしを加え、加筆・修正された『クラウド 増殖する悪意』を紹介させていただきます。

日本社会に漂う不穏な同調圧力

概要

オウム真理教、ノルウェーの77人殺害犯、高校球児の丸刈りなどを通し、日本社会における同調圧力について深く掘り下げられています。付和雷同型社会である日本では、一人一人は普通の人でも大勢が集まれば集団化が起こりやすく、叩いていいとされた人間を叩く「場の力」が発生しやすいと語られています。ニュースでさえ無責任で、群衆は安易に「正義」という名の刃を振り下ろしています。不穏な社会情勢を鋭い切り口で指摘する作品です。また巻末の蓮池氏との対談は必見です。

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著者紹介

著者は、映画監督、作家の森達也氏。氏は1956年広島県生まれ。1986年にテレビ番組制作会社に入社されています。小人プロレスのテレビドキュメントなどのドキュメンタリー系や報道の番組を中心に、数々の作品を手がけられ、1998年にオウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画『A』を公開されました。ベルリン映画祭に正式招待されるなど、海外でも高い評価を受けられています。2001年の続編『A2』は、山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞・市民賞を受賞。2011年には、著書『A3』(集英社インターナショナル)が講談社ノンフィクション賞を受賞しています。


この作品のポイントと名言

でも実際に足を運んでみて、もっと早く来るべきだったと後悔した。重要なテーマには普遍性がある。テリトリーなどで区分できるものではない。それをつくづく実感した。(第一章、p19)

まあ「男」や「女」はともかく、足利事件をきっかけに容疑者や被告すべてに「さん」付けをするのなら文句はない。だってそのほうが正しいのだ。でもその覚悟がないのなら、安易な迎合はするべきではない。(第一章、p36)

でも可能性を理由にデュープロセス(適正手続き)を放棄すべきではない。ほぼ無理だとしても、治療して裁判をやり直すべきだ。なぜかと問われたら、六行前に書いたことを何度でも言う。(第一章、p48)

でも当事者だから言えないことやできないことがある。そして非当事者だからこそ言えることやできることがある。(第一章、p64)

オウムのテレビ・ドキュメンタリーを撮るときには、「オウムを絶対的な悪として描く」という当時の(もしかしたら今も)メディアのルールに反したということで撮影中止をテレビ局上層部から命じられ、これに従わなかったことで、ついには僕自身がテレビ・メディアから放逐された。(第二章、p76)

多くのメディア関係者たちが抱くその恐怖は、実のところ本来の容量ではない。どこかで水増しされている。誰かが水を足している。でも足した当人には、自分が足したという実感がない。無自覚なのだ。(第二章、p82)

人の自由意志はこれほどに危うい。簡単に操作される。そして操作されていることに気づかない。(第二章、p90)

ならば否定せねば。ただの人間だ。最終解脱などありえない。だからこそ無残に精神が崩壊した。その現実を見据えなさいと伝えたい。(第二章、p93)

残されたこの課題に人は悩む。煩悶する。ひとつだけ確かなことは、ヘスは決して特別な存在ではないということだ。誰もがヘスになりうる。誰もがアイヒマンになりうる。もちろん僕も。そこからスタートしなくてはダメなのだ。(第二章、p97)

幼児虐待などが典型だが、自らへの強い被虐の記憶は、慢性的な不安や恐怖へと転じながら、加虐の衝動へと連鎖する。自らの暴力を正当化してしまう。だからこそ第三者の存在と介入が重要なのだ。(第二章、p98)

一人ひとりは拍子抜けするほどに普通。でもおおぜいになったときに振る舞いが変わる。つまり「集団化」だ。(第三章、p107)

鍋の中の水に入れられて下から熱せられるカエルの喩え話が示すように、少しずつ温度が上がっても、お湯の中のカエルにはそれがわからない。いい湯だななどと鼻歌を唄っているうちに、茹だってしまうかもしれないのだ。(第三章、p116)

報道には加害性が常に付きまとう。これをゼロにすることはできない。ならばメディアとしては、その副作用を自覚するしかない。引き裂かれるしかない。その摩擦を保ち続けることが、ジャーナリズムの最後の砦なのだと思っている。(第三章、p136)

迎えてくれる身内はまずいない。当然ながら帰る家もない。たった一人だ。仕事もまず見付からない。社会復帰したくてもできるはずがない。だから再犯は増え続ける。(第三章、p148)

ドキュメンタリーはスタジオで撮影するドラマとは違う。フレームには多くの人が映り込む。重要な被写体には了解をもらったとしても、映り込んだ多くの人から了解を得ることなど実質的に不可能だ。(第四章、p190)

空自トップであろうが総理大臣であろうが最高裁判長であろうが、言いたいことは言ったほうがいい。口を閉ざすから外気に触れない。外気に触れないから内部発酵する。内部発酵するからわけのわからないものに変質する。(第五章、p240)

多くの人はドキュメンタリーに客観性や中立性を求める。誰かは足りないと思う。誰かは十分だと思う。すべてを満たすことなどできない。僕はアーカイブ的な映画をつくったつもりはない。自分がいちばん美味しいと思うラーメンをつくったのだ。(第五章、p250)

拉致問題は絶対に風化させてはいけない問題です。でもその提起と解決の方向性は、政府広報のポスター「私たちは忘れない」式の、北朝鮮への憎悪をセットにした形ではなく、もっと冷静に、他のイシューへの影響や優先順位なども考えながら、考察されなければいけない。(対談、p260)


dZERO新人HKのひとこと

 最初、タイトルだけを見て「クラウド=雲(cloud)≒クラウドコンピューティング?」と思ったのですが、すぐに「クラウド=群集(crowd)」のことだと分かりました。空気というものは、日本社会だけでなく海外にも存在しますが、日本のものは特に濃厚だなと感じます。だから集団化しやすいし、同調圧力もより強く出てしまうのでしょう。この作品はそんな日本社会に存在する不穏な空気を、鋭い切り口から語っています。メディアという「空気を操る存在」に盲目的に従って、わらわらとついていく群集心理があるからこそ、何も考えずに正義の棍棒をふるって、そのせいで生じる結果を考えないのだろうなと思いました。
 作品内でも語られていますが、容疑者というのはまだ犯人だと確定したわけではないのに、メディアが報道するとまるで犯人扱いされてしまう空気というものはかなり濃厚です。この不穏さは気付こうとしなければ、永遠に気付かないものではないでしょうか。読み終わるころには、じわじわと茹でられて死んでしまう茹でガエルのような国民性に気付かされます。

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