正楽三代
はじめに
こんにちは、dZERO新人のHKです。今回は、寄席紙切りの大名跡「正楽」の軌跡と作品を、初代、二代目、三代目の芸と人生をたどる『正楽三代』を紹介させていただきます。
三代にわたる「正楽」のものがたり
概要
著者である新倉典生氏と初代正楽との出会いは、初代正楽の足跡を未来に伝えたいと届いた古い三つのダンボールがきっかけでした。初代正楽は落語家を目指していましたが「紙切り」に転向し、寄席芸へと高めていきます。二代目も落語家を目指し、八代目林家正蔵師匠に弟子入りしましたが、「紙切り」に転向し、「正楽」の名を継承して人気を集めます。そして、三代目は二代目の芸を見た瞬間に「紙切り」を継承することを決め、芸を昇華させていきます。お客さんから出されたお題を、どんなものでも断らずに切るという三代にわたる紙切りへの姿勢。「正楽」それぞれの物語が、カラー口絵も含め、多数収載された紙切り作品と共に綴られています。
著者紹介
著者は日蓮宗僧正、(社)PRAY for ONE理事、かえる文化研究所所長の新倉典生氏。1963年、東京都生まれ。大森大林寺にて14歳で得度、和光妙典寺にて随身生活を送り、1986年、立正大学文学部史学科を卒業し、日蓮宗大本山池上本門寺に給仕、1991年、27歳で足立善立寺の住職となられました。2000年より(財)全日本仏教会の評議員を2期つとめ、2007年、東京都仏教連合会の事務局長に就任、2015年、東京都宗教連盟の事務局長に就任されました。近年は宗教界の活動に加え、仏教に関する文化芸術の振興活動にも力を注がれています。
この作品のポイントと名言
1994年、冬のある日、私が住職を務める善立寺に、古い三つのダンボール箱が届きました。そのなかに入っていたのは、余芸であった紙切りをその独創芸で寄席芸に昇華させ、大看板となった初代林家正楽、本名、一柳金次郎の遺品です。(はじめに、p10)
三つ目は、「道楽者の私には妻も子もいない。だから実父である初代生楽の功績を次の世代に伝えることができない。ついてはその役割をあなたにしてもらいたい」。(はじめに、p12)
そこで再び古い資料を引き出し、新しい情報を集め、正楽三代の関係者や落語家、寄席芸人のみなさんに協力を仰ぎ、一冊の本にして残そうというのが本書の試みです。(はじめに、p20)
焼け野原に建ったバラックで、焼け残ったビルのなかで、さまざまな演劇会も開催され、戦時中に笑いや演芸に飢えていた大衆が押し寄せた。(第一章、p44)
「人を悲しませるものはいけません。人に喜んでもらえるもの、後に残るものなんで自分に恥ずかしくないものしか作りません」(第一章、p50)
正楽の紙切り芸は、名人の域に達していった。(第一章、p62)
亡くなったことを伝えた「朝日新聞」には、「”紙切り一代”五十万枚 林家正楽さん死ぬ」との見出しが掲載された。鋏とともに芸一筋で生き抜いた生涯であった。(第一章、p68)
「もう一人くらい置いといたっていいんじゃないの」このありがたい一言が効いて、景作は晴れて八代目林家正蔵に入門することを許されたのである。(第二章、p76)
見たこともない小僧が、金馬師匠のあとに身体にあわない紋付を引きずって出て来たかと思えば、完璧な訛りをしゃべったものだから、この日はそれがウケた。(第二章、p82)
紙切りをよく見ていると、鋏を持った右手よりも、紙を持った左手がよく動いている。正作はもともと左利きで、右利きに矯正はしたが、両手にペンを持ち、自分の名前を左右対称に書くことができた。(第二章、p85)
「この芸は、私一代限り」と常々語っていた初代正楽。手先の器用不器用よりも、お客の注文のすべてに応えて切るために、頭に入れておかなければならない構図は際限なくある。(第二章、p88)
「お前ねぇ、なんでも安売りする雑貨屋になっちゃだめだよ。落語と紙切りのどっちをとるんだ。そんなことを続けるなら、名前を取りあげるよ」この言葉で、小正楽は紙切り一本で寄席を生き抜いていく決心をしたのである。(第二章、p91)
紙切り一本にしぼってから、小正楽の仕事は徐々に増えてきた。地方の演芸会に出演するために一週間近く旅に出たり、キャバレーに出演したりもした。仕事を選ばず、呼ばれればどこへでも行った。(第二章、p94)
まだ二つ目で弟子はとれないが、紙切りを教える約束をすると、週に一度、自宅や寄席の楽屋にやってくるようになった。秋元真と名乗ったその青年が、のちの三代目正楽である。(第二章、p96)
高座に後ろ幕が張られ、贔屓筋からの祝いの品も飾られた。初代が残した「紙切り正楽」の名に恥じないようにと、二代目は気持ちを新たにして臨んだ。(第二章、p98)
落語家から紙切りに転向した二代目の二人の息子が、ひとりは自分がかなえられなかった夢をかなえ、もうひとりは自分の芸を受け継ぐとは、紙技から生まれた神業ではないだろうか。(第二章、p111)
寄席でどんなリクエストが飛んでこようが、そのものずばりでなくとも、「切れない」とは言わない。見事な類推と頓知を利かせて、お客をうならせるのである。(第三章、p117)
「怠けもんだからね。注文が来たら、自分の頭の中にあるものを切る。それで見せるんです。ちゃんとできなくってもね。でも自分で『やっぱり違うかな』と思う。そしたら、うちに帰ってから切ってみる」(第三章、p120)
初代が創成し、二代目が円熟させた「寄席紙切り」の至芸を、三代目は研磨し昇華させていく。東京の寄席に、なくてはならない存在となった紙切りが、「正楽」の名称とともに未来へつながることは、間違いないだろう。(第三章、p144)
高座で切り抜いたものをその場でお客に見せ、見せた瞬間にお客をうならせるものでなければ寄席芸にはならない。時間をかけて作った作品をじっくり鑑賞するような芸術ではない。(第四章、p148)
そもそも寄席の色物は、ただ自分の持ち時間だけ芸をみせ、客にウケればいいというものではなく、その日のすべての演目を時間通りに進める調整役も担っている。(第四章、p172)
寄席の世界には笑いのなかに、いかに人生を楽しく生きるかというエッセンスがギッシリつまっています。互いに、人々が豊かな生活を楽しむために必要な「知恵」の宝庫です。(おわりに、p175)
晩年「この芸は一代限り」と周囲に語っていたものの、二代目、三代目に受け継がれ、初代の残した「紙切り」は今日も寄席の「華」として色鮮やかに咲き誇っています。(おわりに、p176)
dZERO新人HKのひとこと
まず、色物である紙切りが江戸時代からあるものではなく、大正時代に初代正楽が作り出したことに驚きました。落語と共に、ずっと昔からある伝統芸だと思っていたのですが、近代に発明されたものだったのですね。
寄席紙切りの名跡「正楽」の三代にわたる、それぞれの人生、紙切りへの思い、人間像が色鮮やかに書かれています。各々がどのような思いをもって、紙切りを発明し、継承し、昇華していったのか。寄席芸である紙切りへの理解が深まりました。収載された紙切り作品は、ハサミ一本で切られたものだとは思えないほど完成されていて、その技の凄さに圧倒されます。そして各々の正楽がその技を身に着けるための日々の苦楽が綿密に書かれており、奇妙な親近感を覚えます。カラー口絵の紙切り作品は必見です。
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