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戦争取材と自己責任

はじめに

こんにちは、dZERO新人のHKです。今回は、シリア武装組織による拘束から解放された安田純平氏と氏の友人でもあり、同じく紛争地ジャーナリストの藤原亮司氏の対談である『戦争取材と自己責任』を紹介させていただきます。

今だからこそ語れる真実

概要

安田氏は3年4か月にわたり、シリア武装組織に拘束されていました。安田氏を人質にしたのは、〈ヌスラ〉であり日本政府が身代金を支払ったというデマが報道されたことにより、氏は容赦のないバッシングにさらされました。実際は、日本政府は身代金を支払っておらず、交渉や精度の高い情報収集さえしないという立場を貫きました。日本社会に蔓延する不寛容さと自己責任論は、事実関係よりも精神論を重視するところからきています。大量の嘘(デマ)が拡散され、真実を覆い隠してしまう恐ろしさが対談で語られています。

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著者紹介

著者は、ジャーナリストの安田純平氏とジャーナリスト(ジャパンプレス所属)の藤原亮司氏。安田純平氏は1974年、埼玉県生まれ。一橋大学社会学部を卒業後、信濃毎日新聞に入社し新聞記者となられ、2003年よりフリーランスのジャーナリストに。記者時代の2002年から、アフガニスタンやイラク、シリアなどの紛争地を中心に取材を続けられています。2015年6月、取材のためにトルコからシリアへの国境を越えたところで武装組織に拘束され、3年4か月のあいだ監禁されました(2018年10月解放)。藤原亮司氏は1967年、大阪府生まれ。1998年からパレスチナ問題を追われています。ほかに、シリア、イラク、ウクライナ、アフガニスタンなどの紛争地や、国内では在日コリアン、東日本大震災、原発問題などの取材を続けられています。


この作品のポイントと名言

不寛容さを増す社会で我々は何を考え、どう生きれば寛容でいられるのかを知る手がかりを、彼がこれから語ってゆく言葉の中に私たちは見つけることができるはずだ。(はじめに、p10)

現地人コーディネーターが同行していても、トラブルに巻き込まれるときは巻き込まれてしまう。安田さんと同時期の2015年7月、シリア人コーディネーターの案内でアレッポに向かったスペイン人のグループが拘束されています。(第一章、p30)

人質になった人の実家に集まった記者たちが無断で家の中に入り込んでパソコンを勝手に起動するなど、解放前からほとんど犯罪者以下の扱いと言っていい、すさまじいバッシングが起きていました。(第一章、p40)

外務省は拘束中から一貫して、このアブワエルとの接触を否定しています。アブワエルを通すと身代金の話にしかならないからですよ。(第一章、p43)

軍や警察に拘束されたことは何回かありますが、すべてせいぜい二~三時間で解放されています。海外ではそんなのは日常茶飯事だし、むしろ不当拘束と言われかねないので、彼らもいちいち日本政府に連絡など絶対に入れません。(第一章、p44)

つまり、日本政府は身代金を払うどころか、交渉や精度の高い情報収集さえしないという立場を貫いたということですね。(第一章、p55)

タリクは「自殺未遂を三回した」などと日本メディアに誤った情報を伝え、日本側に揺さぶりをかけようとした人物で、そもそも信じるに値しません。(第一章、p61)

爆弾の破片だけでなく、吹き飛んだコンクリートや車とかの破片も飛んできますね。周囲は巨大な散弾銃で撃たれたみたいな感じになります。(第二章、p73)

拘束されているくせにデザート付きとはけっこうな待遇だな、と彼らは思うわけですね。それで自作自演じゃないのか、などと言い出す始末でした。人を貶める快感を得るためなら何でもいい。(第二章、p79)

戦争に対する想像力の欠如というか、戦争は兵士と戦闘員しかいないジャングルや荒野で行われているわけではないので、日本の外務省が「渡航中止勧告」や「退避勧告」を出した地域では戦争状態の中でも生活を続けている人たちがいます。(第二章、p83)

怖くて政府の批判ができないのが独裁国家なわけですが、現地の人々が話せないのをいいことに、「人々は幸せに暮らしていた」なんてことを言う人たちがいる。(第二章、p92)

毎年八月になると、日本のかつての戦争を取り上げて「戦争はよくない」という文章が新聞に載るわけですが、今から始まろうとしている戦争については「長野県と関係ないからどうでもいい」といったことを編集幹部でも言うわけです。(第三章、p106)

フリーランスの宿命として、取材にはいつもビザやプレスカード(取材許可証)の問題がついてまわります。大手メディアに属していないとプレスカードが取れないとか、取材地に入るところで門前払いをくらってしまうわけです。(第三章、p114)

外国で人質になった人がバッシングされるのは今に始まったことではないし、日本がそういう国、そういう社会だということは承知していました。(第四章、p128)

我々の仕事には何らかの必要性があると思ってやっているけれど、バッシングなどが起こると、「おれたちの仕事はそこまで否定される仕事なのか」と考え込むことがあります。(第四章、p135)

紛争地取材をしている人で、本業だけで食べていけている人はどれだけいますかね。比較的活躍している人でも、ほかの仕事と掛け持ちしているのが現実ですね。それに、そもそも現場に入るのが大変すぎて、取材すること自体が難しくなっている。(第四章、p140)

武装勢力が人質をとって身代金を要求する行為が目立ち始めたのは、イラク戦争辺りからですね。その後〈イスラム国〉が積極的にやり始めて、ほかの武装勢力もそれをまねた。(第五章、p146)

イラク人質事件で、自己責任だとして日本社会が人質三人を非難しました。この「自己責任論」の趣旨は、「すべて本人の責任であって、政府には責任がない」という話です。(第五章、p154)

自分が正しい側にいるという意識は、ある種の選民意識にもすり替えることができる。選民意識を持ったときの人間は開き直りが激しく、怖いもの知らずの高圧的な態度になりがちです。(第五章、p164)

人の脳の特性で、同じものごとでも「実はこうなんですよ」という言い方をされるほうが印象に残ると言われています。ツイッターなどのSNSでは、虚偽の情報のほうが拡散されやすいことも研究によってわかっているそうです。(第六章、p186)

ずば抜けた能力の持ち主か、精神的に非常にタフな人でなければ挑戦できない社会において、そうでない人たちは、その突出した人たちを叩く側に回ることによって、自分自身の存在を確認する。(第六章、p198)

自分の自由について考えるためにはまず、自由を「発見」しなきゃいけないでしょ。発見して初めて、ああ自分は自由だとか、自由じゃないとはどういうことかがわかって、それでどうやったら自由を行使できるのかにつながっていくんだと思います。(第六章、p216)

dZERO新人HKのひとこと

 デマがメディアに報道され、SNSで拡散されることによって、真実に取って代わってしまう恐怖が対談から伝わりました。スティーブン・キング原作の映画「ミスト」を見ているような、理不尽なじわじわとした怖さがあります。実際は、日本政府は身代金を支払っていないのに、支払われたかのようなデマが報道機関とSNSの悪い相乗効果で拡散され、一人矢面に立たされた安田さん。真実を報道するために紛争地帯に行くとはどういうことなのかを知らないまま、デマを真実だと信じてバッシングする人々の姿は、「ミスト」に描かれた霧の中の、姿の見えない怪物そっくりです。デマという霧の中からやって来て、真実を潰してしまう。
 自己責任論を唱えながら、お上の意向に従えと強要する社会全体の暗黙の了解こそが、日本社会を息苦しくさせている正体ではないか? そんなふうに思いました。
 何が真実なのか、嘘なのか。他罰的で不寛容になっているのは、誰なのか。自分の頭で考えていなければ、デマに踊らされて真実を見失ってしまうのでしょう。真実を見ているつもりで、デマ(嘘)に飲み込まれてしまわないように気を付けなければならない時代に突入しているのかもしれません。

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