やわらかな知性
はじめに
こんにちは、dZERO新人のHKです。今回は、認知科学の観点から解き明かされる落語のおかしさを述べる『やわらかな知性』を紹介させていただきます。
「おもしろおかしい」落語の仕組み
概要
認知科学とは知性を研究する学問です。認知科学をひっさげて落語研究に挑む著者による独創的な仮説と実証実験が、作品内で述べられています。噺家と観客の関係性に着目・分析し、突き止められた、そのあいだにある繊細なメタ・コミュニケーション。噺家の語りの方略と落語の演目が有する「構造(噺の筋)」。多彩な表現で、観客の思考を噺の世界に導き、その予想を裏切ることで、噺家はおかしさを生み出しています。なぜ、落語はこんなにもおかしいのか。独特の切り口から迫ります。
著者紹介
著者は、認知科学者、数理生物学者、早稲田大学人間科学学術院准教授の野村亮太氏。野村氏は1981年、鹿児島県生まれ。2008年、九州大学大学院で人間環境学府行動システムを専攻し、期間を短縮して修了。2018年、東京理科大学大学院工学研究科経営工学専攻修了。博士(心理学)、博士(工学)。2020年4月より早稲田大学人間科学学術院にて劇場認知科学ゼミを主宰されています。大学時代は落語研究会に所属し、研究者となってからは認知科学の手法で「落語とは何か」を追究し続けられています。
この作品のポイントと名言
私が噺家の熟達化を研究するときにも、それは人間の知性がどのように発揮されるのか、その本質に迫るものだと考えています。(まえがき、p2)
与太郎や八五郎という名によって、現代社会の人間関係や肩書がざっくり捨象され、この世界で繰り広げられる出来事のおもしろおかしさが純粋に伝わる仕掛けになっています。(まえがき、p3)
本書は認知科学から視た落語の魅力に迫った最初の本です。(まえがき、p4)
本書では、認知科学で捉えたことで見えてきた「落語のおもしろおかしさ」の仕組みをご紹介し、落語における興味深い現象を「学問的なおもしろさ」という観点から述べていきます。(序章、p20)
本書が扱う落語で言えば、噺家が落語の実演を通してどうやって熟達していくかということが認知科学の研究テーマになります。(序章、p22)
認知科学から視れば、演者と観客がそれぞれに個体内に閉じてはおらず、その環境から積極的に情報を取り入れ、一方で環境を作り変えるという、環境に開かれた情報処理を行っている場として落語を捉えます。(序章、p24)
クスグリでおもしろさを感じるのはなぜか。どんなタイプのクスグリがあるのか。落語に固有の構造はあるのか。こういった問いに答えていくことが、認知科学の視点から落語を研究する際の糸口になります。(第一章、p26)
庶民が物知りの真似をして失敗するという展開は、落語でよく見られます。こうした噺は、噺家の符牒で「付け焼刃噺」と呼ばれています。これは、「付け焼き刃は剥げやすい」という慣用句からきています。(第一章、p31)
噺の筋は、「誰が、いつどこで、どんな目的で、何をしているのか」といった要素に分解することができると前述しました。落語のある場面について、聞き手が頭に思い浮かべている「状況」の「モデル(型)」です。(第一章、p32)
なぜ私たちはクスグリをおもしろいと感じるのでしょうか。また、同じクスグリでも、演者によっておもしろさの度合いが異なるのはなぜでしょうか。クスグリに焦点を当てて、落語の「構造」を見ていきましょう。(第一章、p40)
落語に限らず、「予測からの逸脱」は、人間が「おもしろさ」を感じるための重要な要素の一つです。それは、人間が知覚できるものであれば、目の前で繰り広げられる言動である必要はありません。(第一章、p41)
クスグリの笑いには二種類あり、それらは、予測からの逸脱である「裏切りの笑い」と、他者と意図を共有して生まれる「共感の笑い」です。どちらも、ズレを認識したり、意図を読み取ったりという、人間の高い知性が反映されたものです。(第一章、p43)
当然の帰結として、当座のスクリプトは、普遍的な噺の構造として、いつでも使いまわすことができます。噺家自らが噺の中で仕込む当座のスクリプトこそ、時代を超えて観客を楽しませる落語の魅力の一つなのです。(第一章、p62)
研究対象を概念化してしまう「言葉」は、落語のある一面を理解する上では便利なものです。しかし、落語は本来なら時間とともに展開するものであり、モノ・コトとしての形を与えてしまうとコトアゲの状態に陥ってしまいます。(第一章、p74)
知性というと、クールな思考や判断を思い浮かべがちですが、落語を聴くときに働いているのは「あいまいさを許容する知性」です。「やわらかな知性」とも言えるでしょう。客のその知性のおかげで、噺家は細かいことまで説明しなくても、噺が成立するのです。(第二章、p87)
ここからは、噺家と客のコミュニケーションに着目し、マクラやオチの働きを明確にしていきます。これらの分析から、噺家と客とのあいだにはコミュニケーションがあるという前提に立ったときの、落語のうまさとは何か、という当初の問題に戻っていきましょう。(第二章、p98)
落語では、噺家が時間の都合で噺の途中でも終えることができます。もしオチに特別な終結のサインがあるなら、別の言動に即座に置き換えたりすることはできないはずです。つまり、オチは噺の構造には依存してはいないのです。(第二章、p115)
名人と呼ばれる噺家は、多くの客の心をつかみ、時に笑わせ、時に泣かせます。会場の広さに比べればごく小さな高座の上で、一人で話したり動いたりしているだけなのに、数十人、数百人、あるいは千人という客が、一斉に心を動かされるのが落語です。(第四章、p174)
多くの噺家がいるなかで、噺家全員がそれを引き継ぐ必要はありません。落語では、噺家の心の中に新たに伝えたいコンセプトが芽生えたときには、それを表現しても構わないという自由があります。(第四章、p192)
ただし、そのような状況で無自覚に落語をすると、先人からのコンセプトの受け売りになりがちです。このとき、ある噺とその噺のコンセプトは対をなして、当然そうあるべきだと固定化され、そのとき、落語は古典化しました。(第四章、p193)
落語は、噺家次第でいかようにも演出することができます。ですから、落語には、映画や音楽というくらいの広がりがあります。落語は演芸の一つというよりは、一つのジャンルです。(第四章、p205)
もちろん、これは完全に中立な意見ではありません。私自身の落語観や人間観が反映された研究のあり方です。偏っているとは思いますが、それでも落語学の構想の第一歩としてあえて書き連ねることにします。(終章、p209)
本書を読んで、落語に興味を持った将来の落語研究者の方へ。落語の実証研究はまさに揺籃期です。本当にこれから始まると言っていいでしょう。いまなら、あなたはこの道の第一人者として活躍できる可能性が大いにあります。(あとがき、p242)
dZERO新人HKのひとこと
認知科学の観点から、落語のおもしろおかしさが、著者の独特な切り口で紹介されています。実証実験として行われた「まばたき同期」という糸口はまさに、独創的で著者の落語研究に対する熱意が、ひしひしと伝わってきます。「予想を裏切ることで人はおかしさを感じる」という認知科学の研究結果に対して、そういえばそうだなとこれまでおかしさを感じた事柄を思い返して納得しました。
落語の演目でも、予想を裏切られることでおかしさを感じていたので、なるほどとこの時点で答えを見付けた気分でいました。しかし、その後に解説された著者の実証実験や考察を読むと、落語のおもしろおかしさはもっと深いものがあるのだと気付きました。普段、何気なく落語を聴いていて、なんとなく「おもしろいなあ」と笑っていた私ですが、この作品を通して、もっと深い部分で落語を楽しめるようになりそうです。
おまけ
野村亮太氏のコラム「やわらかな知性~認知科学から視た落語~」
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