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映画「怪物」を観たら、思い出したのは「ぼくらは嘘でつながっている。」ということだった。

映画「怪物」を観てきた。

観終わったあとの自分を客観視すると、たしかに「いい映画を観た気分」にはなっているんだけど、少しモヤモヤしている感じも残っていて、そのモヤモヤを解決するために、いろんな感想サイトを読み漁っては「なるほど、こういう解釈をしている人たちがいるのか」ということをやっていた。

モヤモヤした部分が残るのは、映画の中で「明かされていること」と「明かされていないこと」の両面があるからだと思う。でも、どれだけ語り尽くしたとしても、「明かされていないこと」というのは必ず生まれる。

思い出したのは、最近読んだ浅生鴨さん著の「ぼくらは嘘でつながっている。」だった。

「僕たちは現実の中にある膨大な『事実』の中から、必要な要素だけを選び取っていく」

「『それぞれに異なる事実』を『真実』だと呼ぶ」

事実を認定するのが難しいのは、

・自認して詳らかにしている(できている)事実
・自認して隠している事実

そして、

・自認すらできていない事実

があるからだろう。

「多くの人がそれぞれの世界で検証した結果、お互いの認識が一致するもの、それを事実だと呼ぶのだとしたら、完全に客観的な事実なんてものは存在しない」

ということだ。

最近、私がSNSから少しだけ距離を置いているのは、私が「自認しており」かつ「詳らかにする」としている事実だけが、私の「100%」であると解釈されている印象を強く持つようになったからだった。そして、そのギャップに対する付き合い方の、自分なりの折り合いが未だついていない。

だから最近は、こういったギャップが少なそうなプラットフォーム、つまり、「明らかにそこに表現されているものがその人の100%ではない」と認知してもらえそうなプラットフォームを選ぶようにしているかもしれない。

SNSができた頃はきっと逆だったんだと思う。オフラインで付き合っていても表現しきれていないもの、伝えきれていないと感じることをSNS上で表現し、その人に対する理解を補完することで、より良い付き合いを生むことができるようになってきた。

でも、いつからかそれが逆転して、オンラインにあるものだけがその人の全てみたいな解釈をされるようになった。そうすると、SNSで表現しきれないものが出てきて、そこにSNSの苦しさ、オンラインの苦しさが生まれてきてしまっているんだと思う。

少し話が逸れてしまった。

こういったギャップ、つまり、それぞれが見ている「真実」という名の「嘘」は、まさにこの映画の中でも存在している。そして、この映画の制作側と観客側の間でも必ず存在をしている。

そして、そういったギャップこそが「怪物」を生み出す正体なんじゃないか、だからこそ、だれもがだれかの「怪物」になりうるんじゃないか、と、そんな風に感じた。


…なんて、どうにか私の中にあるものを頑張って伝えようと、こうやって文章にしていても、私自身、「自認していて詳らかにしたいと思っているもの」すら表現しきれていないと思っているから、やっぱり、言葉なんて全部「嘘」だなぁと感じる。

でも、別にそれでいいのよ、「僕らは嘘でつながっている。」のだから。

#映画レビュー #是枝裕和 #怪物 #ブックレビュー #浅生鴨 #ぼくらは嘘でつながっている

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