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オフコース論②5人のロックバンド期その1(1976~1980)

前回は1975年のアルバム「ワインの匂い」までお話しました。今回は1976年から始まる「5人のロックバンド期」についてお話したいと思います。

アルバム「ワインの匂い」からディレクターが武藤敏史氏になり、オフコースは息を吹き返しました。武藤氏は細かなところまで音楽を追求しようとする2人の姿勢を支持し、認めてくれたのです。しかしプロである以上、何かしらの結果を出さなければなりません。結果とは何か。それは端的に言えば「売り上げ」です。ビジネスとして成立しなければ、プロとは言えません。

「眠れぬ夜」のバラードからポップソングへの変更は、ディレクターとしての武藤氏を信頼していたからこそ、2人は承諾したのでしょう。そして何より、結果として5万枚弱のスマッシュヒットに繋がったのは、武藤氏の読みが正しかったということに他なりません。

激動の1976年

2月、武藤氏は「眠れぬ夜」の次のシングル「ひとりで生きてゆければ」のレコーディングに一計を案じます。ドラムのレコーディングに元ジャネットの大間ジロー氏を呼んだのです。ジャネットとは武藤氏が担当していたロックバンドで、アルバムを1枚出しただけで解散してしまっていました。大間氏と後に加わることになる同じバンドの元メンバー、松尾一彦氏の才能を高く評価していた武藤氏は、2人をこのまま埋もれさせたくない、ということで、まずはじめに大間氏をレコーディングに呼んだのでした。

5月、ライブにも変化が起こります。バックミュージシャンとして、エレクトリックベースに清水仁氏が参加するようになります。清水氏はビートルズのカバーバンドとして、ディスコで人気を博した「ザ・バッドボーイズ」のメンバーで、そのバンドはオフコースと同じサブミュージックの所属でした。バンドが解散するということで、オフコースのライブを手伝うようになったという訳です(余談ですが、サブミュージックにはワタクシが大変お世話になり、仲良くして頂いた元一風堂の平田謙吾さんのバンドも所属しておりました)。その後8月1日、オフコースは自分達だけの事務所、(有)オフコースカンパニーを設立します。

そして8月より次のアルバム「SONG is LOVE」のレコーディングが始まります。このレコーディングは箱根のロックウェルスタジオで合宿形式で行われ、清水氏は参加出来ませんでしたが、大間ジロー氏はドラマーとして参加、同じジャネットにいた松尾一彦氏もハーモニカで参加することになりました(結果として松尾さんはあれこれ色々なことをやらされたそうです・笑)。

そうして徐々にバックメンバーが揃い、学園祭などでバンドとしてライブをやるようになっていきます。形式的にはフォークデュオと呼ばれた2人組のオフコースでしたが、従来からその音楽性は、とても2人だけで表現出来るものではありませんでした。レコードではサウンドの形態はアコースティックであったとしても、その音の作りはバンド以上に緻密な構築が成されていたのです。音楽に対して偏見のない柔軟な2人の姿勢も、バンド化していくのに十分な資質であったと言えるでしょう。

元々の2人にパーマネントなメンバー3人が加わるという形は、武藤ディレクターのアイデアによるもののようです。武藤氏はバンド出身ということもあり、2人組のオフコースをバンドにしたかったのかもしれません。NHK交響楽団に入団するはずだった武藤氏を東芝EMIに引きずり込んだのは、同じバンドのリーダーであった新田和長氏で、のちの㈱ファンハウス、㈱ドリーミュージックの社長になる人でした。新田氏はチューリップのディレクターだったこともあり、武藤氏は始めからからバンドだったチューリップと、そのディレクターにライバル心があったのかもしれません。

とは言え、2人が好きだった音楽を、バンドの音楽として成立させるのにはしばらく時間がかかります。2人で始めた音楽は60年代のモダンフォークのコピーでしたが、小田さんが音楽を好きになったきっかけは映画音楽であり、鈴木さんもアメリカン・スタンダード・ポップスだったりしたので、いわゆるバンド的なものとは少々毛色の違うものだったからです。

1976年「SONG is LOVE」と1977年「JUNKTION」

1976年のアルバム「SONG is LOVE」と1977年のアルバム「JUNKTION」は、アコースティックを基調としたサウンドで、「ワインの匂い」を更に進化させた路線であると言えるでしょう。この頃、ライブは既にこの5人で成されており、5人のコミュニケーションは十分に取られていたのでしょうが、小田鈴木両氏と大間松尾両氏とでは7歳差、その中間に清水氏がおり、出身地や育った環境、好きな音楽、演ってきた音楽もそれぞれ異なり、お互いに遠慮や同意しかねる点もあったかもしれません。それが故に、この頃は小田鈴木両氏のアイデアに沿って制作が進められたのではないでしょうか。実際、音楽的にはまだバンドらしい楽曲ではありませんでした。それは編成やアレンジの問題ではなく、曲としての佇まいの問題です。「ピロートーク」「恋はさりげなく」「愛のきざし」「変わってゆく女」「恋人よそのままで」など、難解な曲も多く、試行錯誤の跡が見て取れます。それはコード進行もさることながら、メロディーのアップダウンやリズムの取り方など、ポップなバンドの音楽というよりも、洒落た軽音楽のような雰囲気を感じます。バンドの音楽とは何であるかということを、オフコースの2人は曲を作りながら模索していたのでしょう。しかし、それでも5人でライブが成立していたのは、それぞれに高度な演奏力があったからに他なりません。

1978年「FAIRWAY」

1978年のアルバム「FAIRWAY」では、5人のオフコースとして打ち出すかどうかの検討がなされたとのことでした。結果として、正式に5人でオフコースということは打ち出されませんでしたが、歌詞カードには5人揃っての写真が使われており、このアルバムからオフコースを知った人は「5人のバンドなんだな」と認識したのではないでしょうか。

このアルバムのサウンドはAOR的なアプローチでありながらも、この5人だからこその音が出来上がってきたように思います。「あなたのすべて」のような難しい曲も、難しく聴かせない技は流石としか言いようがありません。「季節は流れて」や「心さみしい人よ」などは、アレンジによっては重厚なハードロックになりそうですが、この頃までは小田鈴木両氏の嗜好が強く出ているようで、3人は葛藤しながらそれに沿っていたのかもしれません。

ちなみにこのアルバムのレコーディング時に、1980年にリリースされたシングル「生まれ来る子供たちのために」のB面「この海に誓って」が録音されました。この曲は作詞・小田和正、作曲・松尾一彦による松尾さん初のスタジオ録音なのですが、レコード会社の反対により、アルバムへの収録は見送られました。レコード会社の言い分としては「正式に5人と言っていないじゃないか!」ということだったようです。この頃は既にライブでは5人のオフコースが定着しており、松尾さんのリードボーカルも披露されていたので、メンバーにしてみればそれで十分認知されている、と思ったのかもしれません。
この頃、横浜トヨペットから依頼を受け、新型コルサのイメージソングをオフコース名義で制作しているのですが、作曲が松尾さん、リードボーカルが鈴木さんというものでした。この曲がまた非常にこの時代のオフコースっぽい曲で、それを松尾さんが作っていたということに驚きと喜びを感じます。そういうことから考えると、この時期は既にメンバーの中ではオフコースは5人である、と思っていたのではないでしょうか。

1979年1月20日シングル「愛を止めないで」

1979年1月20日にシングル「愛を止めないで」がリリースされました。この時が大きな変わり目だったと思います。「僕の贈りもの」からオフコースをリアルタイムで聴いてきた人達にしてみれば、それはそれは大衝撃だったことでしょう。ライブでは既にエレクトリックな大音量になっていたと思いますが、レコードとしてここまで大胆なディストーションサウンドは無かったからです。

この大変化は何なのでしょうか。ワタクシが思うに、この曲から途中加入の3人が積極的に意見を述べるようになったからではないでしょうか。この「愛を止めないで」のアレンジは、Bostonの「A Man I'll Never Be」を参考にしていると思われます。それはそっくりだとかパクリだとか、そういうことではありません。メロディーは全然違うのですから。それは曲としての佇まい、つまり、バンドとしての方向性という意味で、5人のオフコースはBostonを参考にしたのでしょう。Bostonだけではありません。この次のシングル「風に吹かれて」のギタートラックはEaglesの「One Of These Night」だと思われます。極めつけは「のがすなチャンスを」のライブでのアレンジでしょう。これはどう聴いてもTOTOの「Girl Goodbye」です。

これらのアイデアはきっと、若い3人が積極的に出したのだと思います。小田さんがBostonを聴いていたとは思えませんし(笑)。オフコースはウエストコースト・ロックに、自分達のバンドスタイルを見出したのです。

1979年10月20日 アルバム「Three and Two」

そして1979年10月にアルバム「Three and Two」がリリースされます。このアルバムタイトルが示す意味は、オフコースは正式に5人である、という意志表明で、フロントジャケットには小田鈴木の両氏は写っておりません。加入した3人も対等にオフコースなのだというバンドの意志が感じられます。

アルバムの1曲目「思いのままに」は、実に力強い決意の歌です。歌詞もさることながら、サウンドでも高らかにそれを宣言しています。
このアルバムの最大の特徴は、ドラムとベースの強調、でしょう。「思いのままに」はギターが前面に出ている訳ではないのに、ロックの力強さを感じるのは、ドラムとベースが効いているからです。
解散してからだいぶたった頃、小田さんはこのアルバムについて「うっかりしたらリードボーカルが消えてしまうくらいドラムとベースを上げた」と語っておりました。やはり、ロックの基本はドラムとベースです。

「その時はじめて」「歴史は夜作られる」「SAVE THE LOVE」のハードなディストーションギターは、その後のオフコースに欠かせないものになりました。それに加え、このアルバム辺りから本格的にシンセサイザーが存在感を増してきました。それまではモノフォニックでモーグのようなものが主流でしたが、ポリフォニックのシンセサイザーが開発され、和音にも対応出来るようになり、その使われ方が大きく変わったのです。おかず的な使われ方だけではなく、パッドとしての存在感や、ギターと対を成すリードソロを取ることも出来るようになってきました。テクノロジーの進化が音楽の進化に繋がったとても良い時代だったと思います。余談ですが、「思いのままに」のシンセのソロは、シンセサイザーのマニアな人達が投票して決める「後世に残したいシンセソロ」に堂々選ばれております(笑)。
バンドとしての方向性が明確になった途端、オフコースは大ブレイクします。

1979年12月1日「さよなら」

何の説明も不要な超大ヒット曲は、アルバム「Three and Two」の1ヶ月半後にリリースされました。新しいアルバムの1ヶ月半後に、シングルカットではない新曲が発売されるというまさかのパターン。相当な攻めの姿勢だったと思います。何としてもオフコースを売る!というレコード会社の気迫が感じられます。発売の時期からしても、ほぼアルバムのレコーディングと同じだったのでしょう。サウンドメイクもアルバムと変わらないので、アルバムに収録されていても違和感は無いと思います。

「この曲は売れ線を意識して作った」と小田さんは後に語っています。何としてもシングルヒットが欲しかったとのことでした。ヒットすればその後の活動がより自由になり、その自由のためにも資金が必要だったのでしょう。

オフコースには「眠れぬ夜」のスマッシュヒット以降、シングルチャート100位以内に入る曲がありませんでした。あの名曲「秋の気配」でさえも、シングルでは全くカスりもしなかったのです。かろうじて89位までいったのがテレビドラマの主題歌になった「ロンド」、アルバム「FAIRWAY」のパイロットシングルになった「あなたのすべて」が82位までいったくらいだったのです。その後「愛を止めないで」が31位までいき、10万枚弱のヒットとなりましたが、何としてもそれ以上のヒットが必要だったのです。
結果として「さよなら」は80万枚という数字を残しました。

1980年3月5日「生まれ来る子供たちのために」

大ヒットシングル「さよなら」の次のシングル曲として「生まれ来る子供たちのために」がリリースされました。東芝EMIとしては「さよなら」に似た売れ線狙いの曲を、ということでしたが「自分達の本音を聞いて欲しい」ということで、この曲になったとのことです。しかし、シングルとしてはヒットには至りませんでした。多くの本や解説では「メッセージ性が強いからだ」「オフコースに求められているものが違うからだ」など、それっぽいことが書かれることが多いですが、ワタクシはそうは思っておりません。

何故このシングルがヒットしなかったのか。それは単に、この曲は新曲ではなく、アルバム「Three and Two」からのシングルカットだったからではないでしょうか。多くのファンは既にこの曲を知っている訳ですし、「さよなら」のヒットによって「Three and Two」を購入した人も少なくなかったはずです。B面に新曲「この海に誓って」が収録されているとしても、当時の中心購買層は中学生高校生ですから、そうそう容易くお金を落とせません。

売り上げ枚数としては4万枚弱でしたが、「さよなら」の後にこの曲をシングルとしてリリースするということには、大きな意味があったと思います。それは何かと言うと、バンドとしての姿勢を示す、ということです。「さよなら」の大ヒットで注目されている時だからこそ、自分達の本質を知って欲しいという、アーティストとして純粋な欲求だったでのはないでしょうか。イメージに縛られたくないということもあったでしょう。オフコースはブレイクするのに時間が掛かった分、先に売れていった仲間達がヒット曲に縛られていくのを目の当たりにしていたと思います。例えばガロ。ガロはとても洋楽志向のマニアックなグループでしたが、外部作家が作った「学生街の喫茶店」が大ヒットしたことにより、そのイメージと戦わなければなりませんでした。ガロとオフコースは仲が良かったそうなので、そういった裏側も見てきていると思います。だからこそレコード会社の反対を押し切ってまで、「生まれ来る子供たちのために」をリリースしたのではないでしょうか。


オフコース論②として、5人時代を書くつもりでしたが、思いの外長くなってしまいましたので、5人時代は2つに分けたいと思います。
とりあえず今回はここまでとします。次回は5人時代の後半を書きたいと思いますので、ぜひお付き合い下さいませ。

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