見出し画像

社会構想試論の全体像―「自由な社会」を実装するために

こんにちは、森一貴と申します。

現在構想している社会の全体像を以下に示します。詳細な議論は今後も引き続き詰めていきますが、皆さんの意見を受けとりながら議論を詰めていきたいので、ぜひみなさんの意見や、おすすめの本のご提案などいただけたら嬉しいです。特に※に記しているような未検討の点について、みなさんの意見も取り入れながら議論できるといいなと思っています。(あと、本書きたいです。)

文章が1万5000字を超えてしまったので、「5.まとめ」より以下の通り要約を以下に示しておきます。

──────────

・幸福の定義は、人によって異なる。

・よって、それを担保するためには、誰もが自由に幸福を選べる社会、すなわち「自由な社会」の実現こそが根本的に私たちが目指すべき社会である。

自由とは「できるという確信」である。自由とは、「選択肢があること」「それを選べる個人の能力があること」「社会の制度、文化があること(寛容)」の3つの要素から成る。

・自由な社会の実現、すなわち「できるという確信」の社会実装のためには、権力側が「できるという確信」を基盤に据えた社会構想を行うだけではなく、人々自身がそれぞれの自由(=選択肢、制度、文化)を実装していけるような「つくることの民主化」が必要である。その要素は「可変性の高い、柔軟な制度体系をつくること」「人々のつくる/変える行為を後押しすること」の二つである。

・その具体的な実装アプローチとして、つくる/変えることをまなぶような都市、製品、サービス等が社会の中に埋め込まれていること(埋込型教育)が重要である。これが普遍化した社会を「総教育化社会」と呼ぶ。

──────────

以下、論理の全体像を把握したい方は、グレー背景の箇所(「※」部分)を省略しながら読んでいただけるとよいと思います。該当箇所は参考、メモおよび議論が深まっていない箇所を示しており、controversialです(その意味で興味深い箇所でもあると思いますが)。

0.自己紹介

森一貴 Kazuki Mori。山形県出身。現在は福井県鯖江市をフィールドに、プロジェクトマネージャーおよび必要に応じてディレクター・サービスデザイナーを名乗りながら、社会構想-実装の試行を繰り返しています。ビジョンは「社会に自由と寛容をつくる」。2021年9月よりFinland・Aalto大学にてデザイン修士取得予定。自由を社会実装するためのCollaborative Design――人々とともにつくる/人々のつくるを後押しする=「つくることの民主化」――を専門に探索します。

これまでに以下のようなプロジェクトに取り組んできました。
・ものづくりの担い手とともに、持続可能性を掲げて地域内の内発的動機のエンパワメントを試みた工房一斉開放プロジェクト「RENEW」元事務局長
・PBLを通じて、「ほしい未来を自分でつくる人を育てる」探究型学習塾「ハルキャンパス」元塾長
・日常の生活やしがらみから離れて異なる他者・他文化と出会い、自己変容を試みる実験的な体験移住事業「ゆるい移住全国版」(元)プロデューサー
ほか。

1.生きる意味は存在するか?

・私たちには、一般適用可能な「生きる意味」は存在しない。

※宇宙論的には、銀河および宇宙は無数に存在し、今も生まれ、消えている。そのため、この世界(宇宙)に目的はない。生物論的には、私たちのアクションとして、集団を維持することと、集団を発展させること(変異、異質、特異性=科学的には"活性化エネルギー")の両方が要請されている。すなわち結論として「なんでもいい」。しかしこのあたりに入り込むと足元を救われそう。

・ただし、誰にとっても適用できる「生きる意味」が存在しないということは、生きるべきではないということを全く意味しない。生きる意味の扱いは、完全に私たちに手渡されている、任されているという意味である。

・私たちは「生きる意味」が私たちに手渡されたとき、MECEに以下の3つの選択が可能である。
 ・「生きない」
 ・「生きる」
  ―「生きる」かつ「生きる意味を定義する」
  ―「生きる」かつ「生きる意味を定義しない」

・ただしここでは、個人としてどうすべきかには立ち入らない。どの可能性も等しくありえる(ただし、生きないという選択肢は、後に自由に関する箇所で議論する「安楽死する自由はあるか」でより詳細に検討すべき。「状況が許せば、生きたかった可能性はないのか?」)。

・「生きる意味を定義しない」ことは仏教的な視点から記述すれば、生きたいという欲望すら手放すことである(「紅炉上一点の雪」武田信玄、あるいは碧巌録)。しかし多様な人々を内包するという社会の性質上、構想するうえで「生きる意味を定義しない」ことを一般原理として他者に押し付けることは難しい。

※「生きる意味を定義しない」ことから原理を立ち上げることも可能であり、成し遂げることができれば、どんな状態にあっても"生きる意味が不要"な社会構想論は、強靭な社会を立ち上げるかもしれない。あるいは、「動物化」は、消費を享受してはいるが、意志していないという意味で「生きる意味を定義しない」選択に含まれると言える。

・そこで、ここでは「生きる意味を定義する」側の個人の視点に立つ。生きる意味とは、広く「幸せになる」ことだ、という共通了解が得られる。これは、論理的な基盤としてよいものだ。(幸せの内容は、もちろん人によって異なる)

※個々人が生きる意味を定義する際には、「幸せになる」以外の定義を行うことも可能。/この定義は、生きる意味を定義しない人々の選択を妨げない。また、生きる意味を定義しない人々、幸せ以外の生きる定義を行う人々に対しても、幸福の提供が常に可能である状態を仮構する。
※ここでの論は、「人々は、幸せになることを望んでいるかは分からない。だが、ほとんどの場合幸せになりたいはずだ。その前提で社会を構想しよう」という話であって、前提としての「幸せであることは良いことだ」を主観的に決めつけてしまっている。主観的前提は必ず入り込むものだとしても、ここの論理をより強靭にするにはどうしたらよいか?

…例えば、苫野一徳は、本当かどうかは分かり得ない決定論等からは距離を置いてフッサールの現象学を引き、「見えてしまっている」という「確信」こそ信ずるに足るとする。ここから可能な限りの共通了解→原理を引き出そうとして、ヘーゲルから「人間的欲望の本質は自由である」というテーゼを引き出す。……私たちは欲望を持つ。そしてその欲望こそ私たちに不自由を与える。この欲望を乗り越えようとすることこそ、私たちの原理である。すなわち、この「諸規定性における選択・決定可能性」こそが「自由」であり、その原理的に、私たちは自由を求めざるを得ない生き物なのだ、と述べる。(「『自由』はいかに可能か」p.86)

…あるいは、後半の自由論から、(自由が担保された上で)主観的な前提を許し、その多様な実装によるその文化・その時代の最適解の更新こそが担保されるべきで、原理(本質)は不要だ=反本質主義、という議論も可能かもしれない。
※そもそも、どこから議論を始めるべきだろうか?

2.幸福とはなにか?

・幸福も生きる意味と同じ論理によって、一般的な「幸福の本質」は存在しない。それぞれが定義する必要がある。

「幸福の形は人によって様々である」という前提は、私たちにとって共通了解可能(誰もが共通に、そうだと思える前提)である。

- 2-1.個人における幸せとはなにか?

・個人における幸福論は深く立ち入らない。なぜならば、いくつかの方針やスタイルは示せるが、定義することは不可能だからである。

・とはいえ、「自己決定感」などいくつかのファクターは見いだされつつある(前野隆司「幸せのメカニズム」)。

・(一試論として)幸福のためには、選択基準を自己定義することが重要ではないか。選択基準を策定することによって、私たちは目の前にあるものを「自己決定」していける。(「やりたいことなんかないけど、しあわせでいたい人の話」における「価値観型」)

非指向性世界(non-oriented world)としての幸福論」を試論しておきたい=「削る幸福」論。私たちは本来的にそのままで幸せ(日本の輸入前の言葉を用いれば「安らか」「穏やか」)であるが、その幸福状態の外側に負荷(ストレス)がかかり、幸せだと思えない状態になっている。そこで、それを削ることによって幸福が見いだされる可能性がある。(これは一つの考え方に過ぎない。複数の幸福論がありえる)

- 2−2.社会における幸せ=誰もが幸福な社会とはなにか?

幸福の形は人によって異なる。この前提に立つと、誰もが幸福な社会とは、ある幸福を定義して押し付ける社会ではなくて、「それぞれの幸福を、自由に選択できる社会」である。

・すなわち「幸福な社会」とは、「自由な社会」を実現することである。

※幸福は一意に定まらない、という前提から、本来二つのアプローチが導かれる。すなわち「全員の幸福の実現を後押しすること」「幸福の実現には立ち入らず、不幸を解消すること」。これには、個的幸福とはなにか(それは社会の側から支援可能なのか)に関する議論をきちんと進展させる必要がある。個的幸福の支援が実現可能なのであれば、幸福の実現を後押しするアプローチ(→自由な社会の実現)をとるべきだろう。その影響力が弱いならばむしろ、不幸を最小化するアプローチをとるべきだろう。さて、不幸を最小化することを考えた場合でも、本試論で述べる自由へのアプローチは一定の効力を持つように思われる。しかし一定程度、「不幸とはなにか?」に立ち入って、その解消というアプローチについても言及をしておく必要があるだろう(自由な社会は、不幸を解消可能か?)。

3.自由とはなにか?

- 3−1.自由とはなにか?

・「それぞれの幸福を、自由に選択できる」ことが「自由な社会」の本質であった。ならば「自由」は「選択肢があること」「それを選ぶための能力があること」「それを選んでいいと思える制度や文化(常識)があること(→「寛容」)」だと言える。

・上記を総合すると、「自由」とは、「できるという確信」である。「できるという確信がある」とは、ある意志に対して、それを実現するための選択肢、能力、制度、文化が担保されているということである。

・これは、アマルティア・センの「ケイパビリティ」と同じ意味を指す。すなわち、「それをやるかどうかではなく、やろうと思ったときに、絶対にできると確信している状態」のことを「自由」と呼ぶ。

・例えば、車椅子に乗っているわたしを仮定してみる。全くバリアフリーではない社会では、私は「どこにも行けない」と思うに違いない。一方、そこら中にバリアフリーが行き渡った社会では、私は「どこにでも行ける」と思うに違いない。この、どこかに行っているかどうかに関わらず、「行ける」と確信できていること。この「できるという確信」を「自由」と呼ぶ。

・この自由は「わがままに振る舞える freedom」(解放としての自由)を意味しない。自由はLibertyであり、多くの場合「権利」にも言い換えが可能である。つまり、「私は車椅子に乗って、どこにでも行ける自由(=権利)がある」と言い換え可能である。

※「できるという確信」は、「なんでもできる確信 confidence that we can do anything」という意味ではない。「Aができるという確信」と「Bができるという確信」は全く異なる。だから「できるという確信」を目指す自由な社会は、多様な・無限の選択肢に対して、選択肢や制度や文化を整えていくという果てしない取り組みであることになる。しかしプラグマティックには、その時代時代の要請があり、それを可能な限り拾い上げて「できるという確信」を実装していく、ということが目指される。例えば今の私たちの要請は「ジェンダー規範の超克」や「雇用流動性の確保」といったものだ。しかし、一方でそれはまだ大きな声になっていない声(例えば「ポリアモリー」)を無視してよいという意味ではない。その点に関しては4-2.にて述べるが、私たちは「不自由を感じたとき、その私たち自身が自由を構築していける」社会を実装すべきである。
「寛容」、すなわち自由のための「制度・文化」について付言しておく。私たちは、選択肢さえあれば自由になるわけではない。私たちは、その選択肢が選べるかどうかを考える際に「これは法律違反だから」「宗教違反だから」「普通ではないから」といった形で自由な選択を阻害されている。そこで、私たちの社会はこうした阻害的な制度・文化を解体し、様々な自由を担保するための制度・文化を担保することが必要である。これを寛容と呼ぶ。これは、制度・文化という社会的装置だけではなく、私たち個々人にも内在的に実装すべき感覚である。この意味で「寛容」は極めて重要なキーワードである。この寛容の必要性、およびその普遍化方法については、議論を加える必要がある。…「なぜ寛容が必要か?」という節を加える必要がある(おそらく、両者をあわせて「自由と寛容」の原理と呼べるようなものになると推察される)。

・ヴォルテール「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
・オランダ独立戦争の指導者・オランイェ公の演説の最後「私自身がいかにカトリック信仰に忠実であろうとも、君主が臣民の良心を支配することや、臣民から進行と礼拝の自由を奪うことには同意しかねるのであります。」(A.A. van Schelven, Willem van Oranje)(物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書) 桜田美津夫)
※センのケイパビリティ・アプローチは、政策的にいくつかの主要ケイパビリティをプラグマティックに定義し、その達成度をはかることで政策運営を行うことを企図している。
※freedomとlibertyの違い(境界)はなにか?ここはもう少し思考を深める。

- 3−2.自由はどこまで可能か?

・自由は、どのように制限されるか?

・自由はそれぞれの個人に絶対的な原理である。それらは容易に対立する。それぞれが尊重されるために「それぞれの他者の自由を毀損することは許されない」。……「他者の自由を奪う自由は絶対的に否定される」。この点において、私たちの自由は制限される。

・苫野一徳は、自由を制限するのは「自由の相互承認の原理」によるという。苫野は「誰もが自由でありたいという欲望を持っている(人間的欲望の本質は自由である)」という原理から論をはじめている。これを前提にすると、私たちは、他者が自由でいたいという欲望をお互いに承認しあうこと=「自由の相互承認」によって、この社会を成立させることができるのだと述べている。

・自由が制限される個別ケースを考えてみる。人を傷つける/束縛する/殺す自由は存在しない。自殺や安楽死の自由は、原理的には制限されない。

※より具体例を通じた思考を深める。
・例えば、堕胎する自由(=権利)はあるか?→端的に解を出せない。「できるという確信」というテーゼにたてば、できるかどうかを意志できない胎児に自由という概念は存在しないと仮定すれば、堕胎は許されることになる。
・一方で、同じ論理で「未来の人々の自由を奪う」行為は許されていいのだろうか?時間差による自由の相克は、どのような論理で(あるいはどのような社会制度や文化によって)乗り越えられるべきだろうか?
・安楽死する自由(=権利)はあるか?原理的には確実にある。しかし、安楽死は取り返しがきかない(死んでから、死ななければよかったとやり直すことができない)。よって他国の事例と同様、あくまで「解決されえない苦しみがあり」「熟慮のうえで決定されている」などの一定の基準を設ける必要がある。しかし、ハードルを設けても、安楽死という選択肢自体は必ず整備されている必要がある。「できる(死ねる)という確信」を整備すべきだから。(宮下洋一「安楽死を遂げるまで」
・動物との性愛は、自由な社会の中で保障されるべきか?(濱野ちひろ「聖なるズー」)…動物性愛者の自由が毀損されていない限りにおいて許される。
・障害を持つ人でもセックスをする自由(="権利")は、自由な社会の中で保障されるべきか?(河合香織「セックスボランティア」)…このあたりの保障論は、極めて難しい。自由と権利が換言可能だとするとき、「どこまでを、権利だと呼び保障すべきなのだろうか?」。すなわち、金銭的・人為的負担が無限にあれば、多様な自由=権利を次々に保障していけばよい。しかし、保障には必ず限界がある。この自由(権利)を保障する/しないの議論は、時代の要請によってプラグマティックに応答していくべきである。とはいえ、現状の一定の見解を提出すべきか。
※苫野一徳「自由の相互承認」は、お互いの自由を承認しあうことが原理であるとする。そのまま、その実質化としての法や教育を提起できる、優れた提案。本試論の自由論は、より個人に力点を置いて理論化している。この違いも丁寧は検討する必要がある。

- 3−3.要検討事項

箇条書きにて。「幸福」と「自由」と両方にかかるものが多い。

※完全に自由である社会では、むしろ何が幸福か、何を求めて生きているのかが不在となる(自由の不自由)。その意味で、資本主義や宗教などの大きな物語を解体することは、絶対に正しいとは言えないのではないか。一方、不自由な社会では、不自由でありつつも、自由を目指しやすく、その意味で私たちは自由である(自由民権運動など。不自由の自由)。このバランスは、いかにとるべきだろうか?(どのように自由な社会を肯定しつつ、その欠点を保障できるだろうか?)むしろ、考えなくても一定の"不幸でなさ"を獲得できることこそが資本主義が目指してきたことなのではなかったか?また、完全に自由な社会は、むしろ何らかの規定性を求めて全体主義を導く可能性がある。
→おそらくバランスが必要。複数のマジョリティ的ロールモデルがありつつ、多様で自由な選択肢がある(見える)状態。「自由の不自由、不自由の自由」
※完全に自由な状態に置かれることにより、資本力格差から「選べる力格差」のような、別軸の格差社会に導かれることは回避すべきである
※為政者が、市民が「つくる」必要のない豊かな社会を実現すると、無思考が広がり、むしろ「つくる」能力の逸失につながる。これは果たして、幸福な社会と言えるのだろうか?持続可能だといえるだろうか?おそらくこの社会は、「自由」ではない。つくる能力を失うとき、私たちは動物化(コジェーヴや東浩紀)する。完全に為政者がすべてを提供している「自由な社会」は、「弱くてもいい社会(失敗できる社会、やり直せる社会)」を実現可能かもしれないが、「大きすぎる国家」の保護社会はむしろ「無思考」が広がり、これは独裁や全体主義を導きだしてしまう。これはディストピアだ。この大きな物語と自由とのバランス感が本当に難しく、結論が出ていない。「課題のない無思考か、課題のある思考か」問題。上記2点に関する議論について、ご存知のものがあれば教えてほしい。
・選択を知らない状態での自由は、その選択範囲が狭いという意味で、本当に自由だと言えるのか?一方で、パターナリズム的な介入は、その人の自由を尊重していると言えるだろうか?
…「ミドルタウンでは、公立高校に入学した生徒の20パーセントは中退する。大学を卒業する人はほとんどいない。州外の大学へ進学する者は、ほぼ皆無といっていい。生徒たちは、自分の将来に多くを望まない。周囲の大人たちがそうで、生徒たちはそれを見て育っているからだ。」(「ヒルビリー・エレジー」p.99)
・自由に選んだからといって、その結果が「幸福」になるとは限らない。本試論の自由論は、極めて選択論的である。選択と幸福の関係を見ると、単に「自由がある(自由に選べる)」ということだけではなく、自由以外にも「その選択によって自分が幸福かどうかを推定する力」「選択肢を広く捉える力」が必要なように思える。幸福な社会のためには自由だけがあればいいのではなく、何らかの知性の獲得または供給が必須だと言えるだろうか?それとも、自由さえあればいいのだろうか?
→(上記2項を受けて)「選ぶ力」は最重要ではないと考えるが、極めて重要であると言えそうだ。これは、「自由」のキーワードにある「選ぶ能力」に内在させて論じられないだろうか?
→このあたりの選択論については議論を相当深める必要がありそうだ。すなわち、自由のための都市や教育の役割として、「選択肢を知る」「選択する能力を得る」「選択先が幸福かどうかを知る」(これはむしろ選択することによる経験値でしか把握できないとも思える)「多様な選択肢がありそうだ、あっていいんだなという認識の枠組みを得る」などの機能が要請される(4-1.)。特に「多様な選択肢があり、あっていいんだ、選べるのだ」という認識の枠組みを持つことは、自由な社会を構想する上で極めて重要な認識のバックグラウンドになる。教育としての実装だけではなく、都市および文化へのEmbeddingが必要である。
・行動経済学(ナッジ)アプローチによって、自由に選んでいるつもりで「それを選ばされてしまう」ことは、自由だと言えるだろうか?
→一定のパターナリズムは避けられない。現状、賛成の立場をとりたい。
・社会システム決定論などの決定論(ブルデュー。私たちは文化などの影響を受け、完全に自由ではありえない。)的な規定性はどう考えるべきか?
→(上記2項を受けて)規定性は必ず存在する。原理的には、「できるという確信」が感じられていればそれで良い。しかし自己の認識の枠組みの限界(規定性)を自覚し、選択肢を拡張し、選んでいける)ために、社会の中に"自己変容 Self-Transition"を埋め込んでいく(Embedding)ことが必要である(→4-1.のSFLを参照)。苫野は「規定性を自覚する」ことも自由の原理の中に組み込んでいる(「自由はいかに可能か」にて、苫野は自由は「諸規定性における選択・決定可能性」p.86であると述べている)。
・寛容論、多様性論はどのように位置づけられるか?
・責任論、平等論はいかに位置づけられるか?

- 補足:独立主義と関係主義

ところで、この自由論では、幸福になる主体として「独立的な個人」が絶対的な単子monosであると定義している。幸福を育み、受け取る主体として、独立で自由な個人、というスタート地点を想定しており、これを「独立主義」という。しかし、社会の捉え方はもう一つある。すなわち、「関係性主義」である。関係性主義とは、幸福は私一人では生まれえず、私とあなたが関係するとき、はじめて幸福は生まれるのだ、という立場である。

"You know, I believe if there's any kind of god, it wouldn't be in any of us, not you or me, but just this little space in between." 「あのね、もし神みたいなものがいるのだとしたら、それは私たち…あなたや私の中にいるんじゃなくて、ただ、私たちの小さなあいだにいるのだと思うの」(映画「Before Sunrise」より、セリーヌの言葉。筆者翻訳)

関係性主義においては、原理となる「幸福」を導出する筋道が全く異なるため、全く異なる構想試論がありえることを指摘しておきたい。

4.「自由な社会」を実現するために

- 4-1.自由=「できるという確信」を育む実装試論

・できるという確信を育むという観点から、福祉制度、経済、教育などについて試論を展開することができる。

・政治体制(→福祉制度):自由とは「できるという確信」であり、それを担保するのが国家(社会)の至上命題である。社会民主主義国家(福祉国家)論が導かれる。貧困や障害による「私は選べないのだ」という観念こそ最も取り除かれるべきものである。

・経済:多様な自由を担保する経済を推進していく必要がある。ここでの自由とは、会社の社員を自由にさせなさい、という意味ではない(「わがままに振る舞える自由」ではない)。変わりたいと思ったときに変われると思える制度・文化=流動性が高い状態(無職になりやすい状態、フリーランスになりやすい状態、転職しやすい状態……)の担保が重要である。 

※いわゆる「自由市場経済」は、「自由」であると言えるだろうか?リバタリアニズム、リベラリズム(あるいは他のイデオロギー)のいずれを選択すべきだろうか?これについては「できるという確信」を原理に据えた経済体制が正しい。すなわち、選択肢を拡大する手段としてリベラリズムを推進しながらも、貧困、格差、不平等を最大限に解消していく積極福祉国家論が推定される。「未来世代の自由」や、超(ポスト)-人間中心設計の思想による)「人でないものの自由」までを見越した場合、持続可能な(共生可能な)定常経済という目標もまた示される。いかに資本主義の基盤である「成長性」と折り合いをつけるべきか(いかに資本主義と共生するか/あるいはオルタナティブを構想するか)は、もう少し議論を深める。
※議論の強度を高める必要あり。自由論から、convivialな経済、という議論に持ち込めないか?「人間的な労働」のような議論は、いかに自由論に組み込み可能だろうか?「ただの人間」として生きる(アーレント「人間の条件」でいう「言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する」p.288)ような労働のありかた、経済のありかたは、どのように自由論の中に位置づけられるべきか?……試論として「できるという確信」、つまり「仕事はいつでも変われるのだ(それでもここで働くのだ)」という確信が成立しているならば、それでいいとも言える。一方、「ただの人間」論は「尊厳」の領域に関わる問題であり、これは高野翔さんとの議論によれば、補足「関係性主義」的な幸福の領域であると思われる。自由とは完全に別軸で議論がなされるべきか。

※イリイチの「コンヴィヴィアルな社会」には私も共感している。このことは、自由論、自由な社会を目指す論理の中で、どのように位置づけ、述べられるべきだろうか?あるいは、全く異なる領域のなかで言及されるべきだろうか?(尊厳的な問題)

・都市:「自由のための都市」を構想する必要がある。すなわち、まちに暮らすなかで、「私たちはXXXができる」という確信を高めるようなまちを実装していく必要がある。例えばわかりやすい例では「交通弱者」…「私は自分ひとりではこのお店には行けない」という不自由は、限りなく解消していくべきである。上記のような直接に不自由を解消することの他に、以下3点が目指されるべきだと考える。

1)「できる」(とりわけ変化や制作)を後押ししていくようなデバイス(まちへの埋込型教育 Embedded Educationについては後述)

2)多様な選択肢に出会うこと(ルイス・I・カーン「都市というのは、少年が朝に出かけて行き、帰ってくる時には、彼が一生かけて取り組む仕事を見つけられるような、そんな場所のことだ」)

3)意味パースペクティブの変容(後述のSFL)

・教育:苫野一徳「教育の力」では、「自由の相互承認の感度を育む」ことが教育の目的だとされている。ここでは、教育の本質は「できるという確信を育むこと」にあると述べたい。そのためには、下記の2点が教育が目指すべき重要な目標である。

1)小さな成功体験を積み続け、自己肯定感を育むこと――まなび手が、「やりたいと思ったなら、私たちは実現させることができるのだ!」と思えること。そのために、PBL(Project Based Learning)は重要なキーワードである。

2)まなび手が、日常の生活空間から離脱し、自分の意味の枠組みの変容を複数回経験することを通して「世界には、多様な選択肢がありえるのだ、そして私たちはそれを選びうるのだ」という確信を持つこと(自由を構成するうちの一つである「選択する能力(=態度、意志)」を導くものである)。そのためには、「人類学者たちのフィールド教育」に示されたSFL(「自己変容型フィールド学習 Self-transformation-oriented Field Learnin」)が重要なキーワードである。この自己変容、認識の枠組みの変容は同時に、他者への寛容をも育む意味で、極めて重要である

※SFLとは、「〈なじみ〉から切断された空間で実施される具体的な課題への取り組みを通して、自分が抱いていた「暗黙の前提」に気づき、自身の世界観を更新していくことを目指す学習のことである」(「人類学者たちのフィールド教育」 まえがき ⅱ)
※この前者の目的のために取り組んだのがPBL型まなびのプロジェクト「ハルキャンパス」であり、後者の目的のために取り組んだのが体験移住プロジェクト「ゆるい移住」である。

- 4−2.自由を担保するための基本方針としての「つくることの民主化」

・「できるという確信」の原理を直接に社会に反映するだけではなく、その間接的な実現のために「つくることの民主化」が極めて重要である。

・自由とは「できるという確信」であった。そのためには、「選択肢」「能力」「制度、文化」が必要であった。

・個人の自己責任論に還元しない自由社会を実現するためには、それぞれの"能力"の影響を最小化すべきだ。つまり、「選択肢」と「制度、文化」をなるべく広く担保するのが社会の役目である。

・しかし、ある政府、企業、団体が、すべての人のための「自由(=選択肢、制度、文化)」をすべて推定し、洗い出し、提供できるわけではない。

・そこで、「自由な社会」を実現するためには、個々人の当事者が「こんな不自由があった」と感じたことを、それぞれに「社会実装していく」ことが必要である。例えば、LGBT当事者の人が、LGBTの地位向上を目指し、制度や文化を変えていくということを行っていく必要がある、など。

「自由な社会を実現するためには、当事者の人々が選択肢、制度、文化をつくる/変えていくことが必要である」。これを後押しするために、以下の2点が必要である。

1)可変性の高い柔軟なルール設計(法改正、制度改正等)※行政のみに問われるわけではない
2)人々が「つくる/変える」ことを、制度的・文化的に後押しすること。

・この柔軟につくる/変えることを可能にする(=可変性の高い)素地をつくることを「つくることの民主化 Democratization of making」と呼ぶ。このつくることの民主化が広く行き渡ることによって、私たちはプラグマティックに、時代ごとの要請にあわせて社会を変化させていくことが可能になる。

「つくることの民主化」は、単に自由な社会を実現する手段なのではなく、自由=「できることの確信」そのものに接続してもいる。つまり「社会をつくれる、変えられるという確信」をつくっていこうというのが「つくることの民主化」である。

※つくることの民主化を考えるにあたり、社会変容 Transition についても試論しておきたい。私たちには2種類のアプローチがある。「本丸を変える」(改革、革命、……)ことと、「別解をつくる」ことである。私たちは、中央を入れ替えなければ私たちの自由は実現されないと思いがちだが、そもそも、システムの根本原理自体が多くの場合対立していることが多い。このケースでは、中央を倒すことは、次の中央奪還を生む。常に主従が入れ替わり、闘争が続くことになる。そもそものシステム全体を別解的に再構築することも、広く目指される必要があるだろう「別解主義」)。例えば「夫婦別姓」への反対は、「婚姻システムの変更」のほかに「事実婚の制度化(フランス「PACS」)」というアプローチや、あるいは「婚姻を国家に承認してもらう必要はない(リレーションシップ・アナーキズム的態度)」という別解もありえる。
※可変性の高さという視点、および「つくる/変える」ことに携わることが可能になる集団規模の小ささから、権力は分散させるべきであるといえる。すなわち、日本は道州制(連邦制)を導入すべき、あるいは基礎自治体の権力を極めて大きくすべきであると考える。

…経済学は「数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない」。なぜなら、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうるのである」(E.F.シューマッハ「スモール・イズ・ビューティフル」 p.97)

「住民自身が、その生活と発展との形を自ら決定することを可能にするためである。単位が小さいことが、自治の条件だからである。」(内発的発展論 p.51)
「レイキャヴィックは「なにかを生み出すために訪れる場所」だ。翻って日本の都市はどうだろう。そこを消費空間として編成することにばかり執心したせいで、たたひたすら「お金を使ってくださいよ」と囁きかけるものになってしまってはいないか。「なにか一緒に新しいものつくりましょうよ」と誘うレイキャヴィックと較べてどっちが楽しそうだろう。観光立国。なんて物欲しげで浅ましく聞こえるコンセプトだろう。」(「さよなら未来」p.45)

※ただし為政者(組織団体)は、人々のつくる能力に依存してはいけない。つくることは、あくまで為政者が認識し得なかった部分を補填するためにあるのであり、「すべての人がつくる行為に熟達すべき」では全くない。むしろ、すべての人が"つくる"べき社会は、経済格差ならぬ「つくる力格差 Creativity Disparity」を生み出すことになるために避けねばならない。この点については既に前述で指摘済みだが、議論を深める必要がある。

- 4-4.「つくることの民主化」を実装するための実装試論

・上記のことから、「自由な社会」を実現するためには、「つくることの民主化」が必要であることがわかる。

・行政や企業は、以下のように「つくることの民主化」を促進するプロセス(参加型アプローチ)を採用すべきである

1)プロダクトやサービスのデザイン・制作プロセスを参加型にし(人びとを巻き込み)、これにより人々のつくる能力 Design CapabilityEzio Manzini「日々の政治」)を醸成すべきである。

2)制作プロセスにおいて、労働者をもエンパワメントすべきである――デザイナーの「第一の目的が人々をプロジェクトに巻き込むことであり、題二の目的が、かたちを自立的にプロジェクトする権利を職人に残す」ことである。(Enzo Mari「プロジェクトとパッション」p.90)――。

3)完成したプロダクトやサービスそのものに、民主的なまなび(=つくること、変えること、まなぶこと)を(少なくともその意志を)埋め込んでいく Embedding ことが重要である。使うことそのものが、つくる能力を養うようなものにせよ、という意味である。このまなびを「埋込型教育 Embedded Education」と呼び、これが普遍した社会を「総教育化社会」と呼ぶ。これはイヴァン・イリイチが「コンヴィヴィアルな社会」と呼ぶものに近い(「コンヴィヴィアリティのための道具」。言うまでもなく、イリイチは大組織や権力側のみがプロダクトやサービスをつくり、消費者はそれを受け取るだけ、という構造を強く批判している)。例えば、マインクラフトなどは、制作するという「遊び」であるが、同時にそれそのものが「つくることの民主化」を推進している。

・デザイナー、アクティビスト、フィクサー……らの役割もまた、これら組織・団体の「つくることの民主化」へのトランジションを後押しすることにある。

・私たち一人ひとりもまた、クライアントワークのなかで、あるいは日常の仕事の中で、「つくることの民主化」の概念を下地にしたプロジェクトを起こしていくことが可能である。あるいは、私たちのDesign Capabilityを通じた「非連続な未来」を描こうとする一歩一歩については、Ezio Manziniが「日々の政治」で詳述している。

※この実装のために私が取り組んだのが「福井政策デザイン」におけるサービスデザインおよび「Public Design Lab. Fukui」のコンセプトメイキングである
※コ・デザインの実践とは「人々がデザインするためのプロジェクトであると同時に、人々が学習するためのプロジェクトでもある」(上平「コ・デザイン」p.126

※「民主主義は単に、社会的対話のための中立的な道具ではない。いわば「学習できる体制」である。」(Ezio Manzini「日々の政治」p.167

※「ものごとを政治化していくには、「当たり前」とされているものを「誰もが勝手に変えられるもの」へと変えていくことのできる政治的な行為主体 Agent が必要だ」(マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」p.195
※鯖江市は既に、「市民主役条例(H22策定)」や「提案型市民主役事業」を実行にうつすなど、参加型アプローチによる「つくることの民主化」に極めて早い段階から取り組んでいる。女子高生がまちづくりに巻き込む/巻き込まれる「JK課」(これはSFL/PBL的な自己変容的まなびの場でもある)や、「市長になりませんか」をキャッチコピーに据える、民間企画・運営による「地域活性化プランコンテスト」など、市民の側からのつくる行為の発露(およびそのつくる行為の発露を後押しするメタ行為)も広く行われてきた。

・都市論としても、Embedded Educationを基盤においた都市論を思索できる。すなわち、暮らしのなかに「つくることの民主化」が埋め込まれたまちをデザインすることができる。地域デザインの観点からも、都市デザイナーがデザインを担い市民に手渡す構造から、いかにまちに暮らす人びと自身が都市をデザインする役割を担っていけるか、が重要になってくるだろう。

※この実装のために私が取り組んできたのが「RENEW」である。

・このように、実際の「自由な社会」の実装においては、直接的に「自由」=「できるという確信」を実装していくことに加え、「つくることの民主化」を広げていくという、二つのレイヤーで社会構想を行うことが求められている。

5.まとめ

・幸福の定義は、人によって異なる。

・よって、それを担保するためには、誰もが自由に幸福を選べる社会、すなわち「自由な社会」の実現こそが根本的に私たちが目指すべき社会である。

自由とは「できるという確信」である。自由とは、「選択肢があること」「それを選べる個人の能力があること」「社会の制度、文化があること(寛容)」の3つの要素から成る。

・自由な社会の実現、すなわち「できるという確信」の社会実装のためには、権力側が「できるという確信」を基盤に据えた社会構想を行うだけではなく、人々自身がそれぞれの自由(=選択肢、制度、文化)を実装していけるような「つくることの民主化」が必要である。その要素は「可変性の高い、柔軟な制度体系をつくること」「人々のつくる/変える行為を後押しすること」の二つである。

・その具体的な実装アプローチとして、つくる/変えることをまなぶような都市、製品、サービス等が社会の中に埋め込まれていること(埋込型教育)が重要である。これが普遍化した社会を「総教育化社会」と呼ぶ。

「私が提供したいのは行動のための指針であって、空想物語(ファンタジー)ではない。」(「コンヴィヴィアリティのための道具」p.46)

・私たちは、自由な社会を実現するための方策を既に持っている(既にやってきた)。ここに描いた「自由な社会」――誰もが「できるという確信」を持つ社会は、ただの構想、夢物語ではない。すぐそばの地続きにある社会であり、私たちはこれを実装可能である。

補足. 解消されていない問い

冒頭で示した通り、本試論は議論の途中段階です。以下に示す点については、私の中でもまだ結論が出ていないところ、議論を詰めきれていない点があります。ぜひみなさんの意見も頂戴したいですし、またおすすめの書籍等ありましたら、ぜひ教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。(あと、本書きたいです。)

・私たちは、そもそもどの地点から議論を始めるべきだろうか?

・「私たちは、誰もが幸福な社会を目指すべきである」この論証は、いかに鍛えることが可能だろうか?(論証不可能なのだろうか?)

・自由とはなにか?つまり、私が感じているアメリカ的自由と北欧的自由の違いはなにか?freedomとlibertyの違い(境界)はなにか?積極自由と消極自由の違い(バーリン「自由論」)はなにか?ここはもう少し勉強する。

・具体的な自由は、それぞれどれだけ可能だろうか?すなわち、「堕胎する自由(胎児の自由との相克)」、「未来人の自由を奪う自由」、「安楽死の自由」、「障害を持つ人でもセックスをする権利の保障」など。

・どこまでの自由(権利)を保障すべきなのだろうか?保障には必ず限界がある。現状、どこまでが社会保障の中で対応されるべきだろうか?

・完全に自由である社会では、むしろ何が幸福か、何を求めて生きているのかが不在となる(自由の不自由)。その意味で、資本主義や宗教などの大きな物語を解体することは、絶対に正しいとは言えない。一方、不自由な社会では、不自由でありつつも、自由を目指しやすく、その意味で私たちは自由である(自由民権運動など。不自由の自由)。このバランスは、いかにとるべきだろうか?(どのように自由な社会を肯定しつつ、その欠点を保障できるだろうか?)完全に自由な社会は、むしろ何らかの規定性を求めて全体主義を導く可能性がある。

・為政者が、市民が「つくる」必要のない豊かな社会を実現すると、無思考が広がり、むしろ「つくる」能力の逸失につながる。これは果たして、幸福な社会と言えるのだろうか?持続可能だといえるだろうか?おそらくこの社会は、「自由」ではない。

・自由に選んでも、その先が幸福だとは限らない。ということは、選択肢を知る能力、選択先が幸福であるかを知る能力、などは自由とは別に必要なのだろうか(保障されるべきだろうか)?また、そのための介入(パターナリズム)は、是とされるべきだろうか?(→おそらくYES)

・行動経済学(ナッジ)アプローチによって、自由に選んでいるつもりで「それを選ばされてしまう」ことは、自由だと言えるだろうか?(→おそらくYES、しかし規定性を知るための教育が必要ではないか)

・寛容論、多様性論はどのように位置づけられるか?

・責任論、平等論はいかに位置づけられるか?

・資本主義経済の中で「人間的な労働」を取り戻そう、といった議論は、いかに本試論に組み込みできるだろうか?あるいは、自由論とは全く別の領域で語られるべきものなのだろうか?

参考文献

1.生きる意味は存在するか?

鈴木大拙『禅と日本文化』北川桃雄訳、岩波書店、1964年
苫野一徳『「自由」はいかに可能か』NHK出版、2014年

2.幸福とはなにか?

前野隆司『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』講談社、2013年

さらにこれから、アランラッセルショーペンハウアーヒルティの幸福論などが追加される予定

3.自由とはなにか?

アマルティア・セン『不平等の再検討――潜在能力と自由』池本幸生・野上 裕生・佐藤 仁訳、岩波書店、2018年
アイザィア・バーリン『自由論 新装版』小川晃一・小池銈・福田歓一・生松敬三訳、みすず書房、2018年
福島清紀『寛容とは何か—思想史的考察』工作舎、2018年
ヴォルテール『寛容論』斉藤悦則訳、光文社、2016年
宮下洋一『安楽死を遂げるまで』小学館、2017年
濱野ちひろ『聖なるズー』集英社、2019年
河合香織『セックスボランティア』 新潮社、2006年
岸政彦『ブルデュー「ディスタンクシオン」2020年12月 (NHK100分de名著)」小学館、2020年
箕曲在弘・二文字屋脩・小西公大編『人類学者たちのフィールド教育―自己変容に向けた学びのデザイン』 ナカニシヤ出版、2021年

さらにこれからミル「自由論」西尾幹二「あなたは自由か」エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」ロールズ「公正としての正義 再説」上野千鶴子「近代家族の成立と終焉」などが追加される予定。

4.「自由な社会」を実現するために

F・アーンスト・シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』小島慶三・酒井懋訳、講談社、1986年
宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年
イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』渡辺京二・渡辺梨佐訳、筑摩書房、2015年
ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房、1994年
ルイス・カーン『ルイス・カーン建築論集』前田忠直訳、鹿島出版会、2008年
ジェーン・ジェコブス『アメリカ大都市の死と生』黒川紀章訳、鹿島出版会、1977年
苫野一徳『教育の力』講談社、2014年
エツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』安西洋之・八重樫文訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2020年
エンツォ・マーリ『プロジェクトとパッション』田代かおる訳、みすず書房、2009年

さらにこれからデューイ「民主主義と教育」ラトゥーシュ「脱成長」友野典男「行動経済学」ティム・インゴルド「メイキング」セネット「クラフツマン」クリス・アンダーソン「MAKERS」ヤン・ゲール「人間の街」ルイス・カーン「ルイス・カーン建築論集」などが追加される予定。

──────────

以下、もらったコメントを記載していきます。

・社会の定義。市なのか? 村じゃダメか? 何人いればいい? あるいは何があれば? 一つあればいいのか? いくつ必要か?
→森コメント)「理想の最小国家」を実現したいと考える。それが可能になれば横展開が可能だ。おそらく、人口は100万弱いれば最小国家は成立する(cf. エストニアは130万人)。国家として必要な機能を可能な限り実装したい。とはいえ、根本的に重要な機能として「教育」や「福祉」を想定するのであれば、おそらく単一市のレベルで、未来への課題提起になりうる実装は可能ではないかと考える。(保育・教育は市のレベルで一定対応可能。福祉・医療は基本的に県域だが、金銭保障等の観点では市のレベルで実装が可能。経済については、まだわかっていない。)

・「つくることの民主化」を実装した時に、その社会は生存が可能であるか?

・「自由に選んでも、その先が幸福だとは限らない。」「選択肢が幸福であるか」→つくることができるなら、どの選択肢の先に行っても、またそこで幸福を選択できるという確信を持てるのではないか?
→森コメント)
・私たちが変化する際には、変化は潤滑(摩擦ゼロ)ではなく、なんらか時間や工数=ストレスがかかってしまいます。これが複数回続くと「私はやはり変わるべきではないのだ」という不自由に拘束されてしまう可能性があるかもしれません。
・それよりむしろ最も問題なのは、多様な選択肢があることすら知らない場合に、「選んだ先を幸福だと思い込んでしまう(思い込もうとしてしまう)」こと。その意味で、単純に自由だけが担保されているだけでは不十分なのではないかと考えます。

・生きる意味のなさに対しては、右記が重要→「有意味な生き方とはどのようなものか」に関しては、具体的な答えが与えられない状態に耐えることが重要だ、と言いたいわけです。(山口尚著『幸福と人生の意味の哲学』)=ネガティブ・ケイパビリティ

・「自由と平等」を掲げる限り、格差が生まれる構造をどう考えるべきか?8割の人が安心して、思考停止して浸れる虚構を2割の人が編み出さないといけないのだろうか?

・もし、自由を自由たらしめるものが「確信」であるならば、それは「信仰」でもいいのではないか?騙されていてもいいのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?