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欧州往復書簡4 脱植民地のためのデザインの限界と、多元論的地方

*このマガジンは、欧州の大学院に修士留学をしている3人が、いま感じていること、考えていることを伝えあう往復書簡です。

*執筆
森一貴(Kazuki Mori):フィンランド・アアルト大学修士課程Collaborative and Industrial Design
牛丸維人(Masato Ushimaru):デンマーク・オーフス大学修士課程Visual Anthropology
田房夏波(Natsumi Tabusa):イギリス・ロイヤルカレッジオブアート修士課程Service Design

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本日11月22日、フィンランドに初雪が降りました。外を歩けば耳に痛みを感じてアプリを見ると、もうマイナス3度とのこと。ついにフィンランドの冬がやってきたようです。

一方で気づくことは、フィンランドの灯りの、きりりとした輪郭です。夜が長い国だからでしょうか。猥雑なネオンでもなく、あるいはあたたかい灯りでもなく。それは暗がりに凛と立つ美しさをまとっているように思います。

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僕の所属するCollaborative and Industrial Design学科では11月頭からオフライン授業も一斉にスタートし、キャンパスライフらしいキャンパスライフがスタートしています。

さて、先日牛丸さんは、人類学の「他者」化と、それに対する自己批判について言及しておられましたね。それを受けて今日は、そのデザイン版の議論ともいえる「脱植民地化デザイン Decolonising Design」を通じて、僕たちは(地域は)どうあるべきだろうか、という問いを投げさせてもらえたらなあと思っています。

多元的なデザインへの視座の広がり

アアルト大学の授業では、デザイン倫理とでもいうのか、超デザイン的な思考を求められることが多いです。具体的な領域としては「post-human design 脱人間的デザイン」、「design justice デザインの正義」、「decolonising design 脱植民地化デザイン」、「design for social innovation」などなど。

これらはいずれも、大きな枠組みとしてはEscobar(2018)が示した多元的デザイン Pluriversal Design という言葉に集約されると考えています。それは、ある概念―ここでは西洋中心的な考え方が支配的になる二元論的思考―からの脱却であり、「a world where many worlds fit 多くの世界が適合する世界 (p.xvi)」への移行を意味します。

これら多元論 Pluralism への移行は、最近ではどんな文脈でも型にはまったように論じられていてやや食傷気味でもありますが、それほどまでに重要な議論である、とも言えるでしょう。ウェブサイト「Decolonising Design」の編集声明(Ansari et, al. 2016)には、こうあります。

”For us, decolonisation is not simply one more option or approach among others within design discourse. Rather, it is a fundamental imperative to which all design endeavors must be oriented.”
「私たちにとって「脱植民地化」は、デザインの多様な言説において、単なる追加の選択肢や方向性ではありません。むしろ、それは全てのデザイン探求者が向かうべき、根本的な必須要件なのです。」

しかしながらその多元論は、タンジブルに考えてみると、思ったより実現は難しいことに気付かされます。そのことについて、脱植民地化デザインの視点から簡単に考えてみます。

植民地化デザインとはなにか?

そもそも、植民地化 colonising とはなにか?

ベイルートを拠点に研究を続けてきたZeina Maasriは、エジプトのMohieddine Ellabbad(Maasriによれば1982年?)のイラストを紹介しながら、モダニズム的な植民地化について語っています。

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このイラストが示すのは、視覚的な視点における2つの「植民地化」の事例です。

右のイラストでは、「肌色 FLESH COLOR」と印字されたインクで、"自分の肌の色"が塗れないことが示されています。西洋で生まれた肌色 flesh colorが世界に広がっていくことは、いわば「私の肌の色は"普通の肌色"ではないのだ」というマイクロアグレッションを埋め込む構造になっているのです。

左のイラストでは、西洋のヒーローは「左から」やってくるということが示されています。英語は左から右に読む言語ですから、時間軸が左から右へ進む、という視覚的な価値観があります。

現在では、この「左から右へ」の価値観が、透明化された・ユニバーサルな・近代的な視点で私たちの生活に埋め込まれている。例えばtwitterやinstagramを想像してほしいのですが、視点が左上から右下へ進むということが、暗黙の了解になっているわけです。おそらくみなさんも上記のイラストを見て、まず左の絵から見たのではないでしょうか?

それに対し、アラビア語は右から左に読む言語ですから、エジプトでは、視覚は右から左に移動しますし(日本の国語の教科書を思い出してください)、当然英雄も、右から左に向かってやってきます。ここでは当然、視野の移動において摩擦が生じます。

いわばここでは、右から左の価値観は、マイナーな、あるいは劣った存在であることが示唆されてしまう。西洋支配的な植民地化とは、いわばここでは「左から右へ進む」という視覚的な価値観の植民地化であるわけです。

(早速牛丸さんより、次の文献を共有してもらいました。スペイン語圏では時間は左から右へ、ヘブライ語圏では右から左へ流れていると指摘されています。および、日本では少なくとも横書きの場合は、時間は左から右に流れていることが示されています。「未来は君の右手にある――身体化された時間概念――」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/85/4/85_85.13055/_article/-char/ja/ )

(iPhoneなどではこれに応答し、逆向きの配置を提供しています)

これに対して脱植民地化デザイン Decolonising Design は、上記のような広範かつ根深い植民地化に抗い、社会構造そのものを存在論的に変容させようとする営みです。

そのローカルな実践は各地/各領域であらわれています。例えばブラック/フェミニズム/ジェンダー的な領域では、Sasha Costanza-Chockの近著「Design Justice」などでその実践と応答が詳述されています。

また、以下はフィンランドにおける先住民「サーミ人」によるカルチャー・ジャミング(メディアを変革しようとするムーブメント)の一例です(この動きについては、フィンランド出身の研究者・Laura Junka Aikioが詳細に紹介しています)。

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サーミはフィンランド・スウェーデン・ノルウェー北部に広く散在する、およそ10万人ほどいるとされる先住民ですが、サーミの権利が議論され始めたのは'90頃のこと。2012年頃になってようやくfacebookなどで議論が広まり、Suohpanterrorというアーティスト集団によるビジュアルアートを用いた啓発が広がっているといいます。

脱植民地化デザインの2つの自己矛盾

しかしこうした実例が広がりながらも、現実的な問題として、新しい規範創造的なアクションは描けていないのが現状だとMaasriは述べています。そこには、脱植民地化デザインの自己矛盾がありはしないでしょうか?

ここでは、2つの視点から述べてみたいと思います。

ひとつめは、脱植民地化デザインが「Colonised」に留まろうとする性質についてのものです。

例えば上記のMohieddine Ellabbadのイラストを振り返って、それに対応する脱植民地化デザインの実例を考えてみましょう。それはつまり、「左から右」が優勢の文化に対し、「右から左」の文化を多元的に(並列的に)実装することであると言えます。

それはつまり「ONE PIECE」(あるいは「NARUTO」)ではないでしょうか?

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第一話より。この一コマだけで泣けます)

日本のMANGAはいわば、抑圧されてきた「右から左」の視覚的な価値観を世界中に確立した、脱植民地化のデザインなのです。

しかしながら、このいわば「成功した脱植民地化デザイン」の事例を拡張してみると、いわばワンピースは「漫画は右から左へ進むものだという価値観を世界に広めようとする」、植民地化デザイン Colonising Design であると言えないでしょうか?

すなわち、反-植民地化を推し進めた結果としてそれが成功すると、あるポイントを超えた時点で、それはむしろ、反する概念を植民地化するデザインに成り代わってしまう可能性があるのです。

ピエール・ブルデューは、私たちは自分のハビトゥスを差異化・卓越化させようとする「象徴闘争」を行うのだと言っています。そうであるならば、理想的な多元論は幻想でしかなく、'戦争'を防ぐには、外部に出てゆかず、そのローカル領域に留まることを要請されてしまうのではないでしょうか。

言い換えるならば、脱植民地化デザインは、ローカル領域を超えていくことを自分自身に許可していないのではないか。いわば植民地化された colonised 状況を自分自身に課すという、自己矛盾に陥ってはいないでしょうか?

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もうひとつの脱植民地化デザインの自己矛盾は、多元的世界観における「インフラストラクチャー」に関するものです。

This planet is "shared and co-inhabited by a plurality of peoples, each inhabiting different worlds, each orienting themselves within and towards their environments in different ways, and with different civilizational histories"(Ansari et, al. 2016)
「この惑星は、それぞれが異なる世界に住み、それぞれが異なる方法で環境の中で進み、異なる文明の歴史を持つ、複数の人々によって共有され、共同生活を送っています。」

私はこの世界観に全面的に賛成ですがしかし、こうした「異なる世界」の人々の「あいだをつなぐもの」はなんでしょうか?言い換えれば、異なる世界に住む私たちは、一体なんの言語でコミュニケーションをとるでしょうか?

それは英語ではないでしょうか。

異なる世界に住む私たちだからこそ、このグローバルな世界のなかでは、異なる他者とコミュニケートするためのインフラストラクチャーが必要になるはずです。それは例えば英語であったり、インターネットであったりします。あるいは、「左から右へ」という価値観ですら、この世界では現在、ひとつのインフラストラクチャーでありえます。

マーク・フィッシャーは「資本主義リアリズム」のなかで、私たちが労働者として「柔軟性」「多国籍性」「自発性」を求め、勝ち取ってきたことで、その流動性の帰結として、労働者が資本家にとって勝手に、自動的に、安価に最適配置される現状を指摘しています――Uberの労働者搾取を見ればそれは明らかです。この「自由」こそいま、資本主義にいいように利用されているのであり、フィッシャーはこの、マネジメントすら必要なく勝手に管理されてゆく社会を「管理社会」と評しています。

その意味では、脱植民地化によっていわばどんどん差異化し分裂していく社会は、逆説的に、英語などをはじめとする既存のインフラストラクチャーに依存を強めていくはずです。つまり私たちは、無意識のうちに、植民地主義側に有利な世界へと向かいつつあるのではないでしょうか?

そうであるならば多元論は(それが完全に断絶してしまったディストピアではないのなら…!)、「英語」という植民地的なコミュニケーション手段に対して、反駁できないのでしょうか。あるいは、必要な代替インフラストラクチャーを、誰かが提供できるでしょうか。加速主義的に翻訳技術の成熟を待てるのか。しかしそのとき、技術を握っているのは誰でしょうか?

簡単にまとめます。

多元論を指向する脱植民地化デザインは、「大きくなること=成功を許されておらず」、「既存の(植民地化の名残りである)インフラストラクチャーに依存せざるをえない」のではないか、と私は考えているのです。

被抑圧者としての多元的地方論

私は多元論を支持しています。少なくとも、そうしたいと思っています。

私がここで、なぜ多元論の議論を取り上げたかといえば、それには2つの理由があります。ひとつめはこの議論はそのまま、'There is no alternative'としての資本主義に対するオルタナティブへと接続していくからです。またもうひとつは、これから日本のローカル(=抑圧されてきた側)で実践を積み重ねていこうとする私にとって、多元論はひとつの希望であるからです。

シューマッハが「small is beautiful」と述べたとおり、これから地方は多元論の旗手になっていくはずです。

多元論的地方は、それぞれの地域が、根底にあるシステムのレベルから、多様なオルタナティブを構想していくことを可能にします。――資本主義やネオリベラリズムではない、あるいはサステイナブルで倫理的な構造は、世界全体で一律に実現することは難しくても、小さな区域でなら実装できるかもしれない。そうして新しい世界を次々に制作していける世界線に、僕は希望を持っているのです。

しかしながら地方は、少なくとも現状のところ、抗いがたく都市および国家(政府)に従属する存在です。いわばここでは、都市や国家は、上記で述べた「植民地側」であり、「インフラストラクチャー」です。

そうであればこそ、私たちは多元論に関する議論に深く潜りこむべきなのではないかと思うのです。多元論的デザインをめぐる上記の行き詰まりを超克する糸口を見つけられないならば、私たちは何をしたところで、実際のところゆくべき先を知らずに右往左往するしかありません。

植民地側である地方は、多数の地方が多様な未来を描き合うための基盤を、いかに実装できるのか。あるいは、それは可能であると思いますか?

あるいは、田房さんの議論に引き付けて、より個人の変容と行動のレベルで考えてみると、世界を少しでもよりよくしてくために、私たちは「どんな風に変容」すべきなのか、ということにもつながってくるかもしれません。

パウロ・フレイレの「被抑圧者」に関する教育論は、個人の変容と、社会の変容につながる論でもあるからです。

"the goal of education is to transform oppressed individuals into subjects who engage in collective action to transform their conditions of oppression." (Sasha, 2020)
「教育の目的は、抑圧された個人を、抑圧された状況を変えるためにコレクティブな行動を起こす主体へと変容させることである」

私たちはどのように変容すべきか。あるいは、変容してどう行動するのでしょうか?

これらの問いの上にこそ、私たちははじめて、社会を変えていくための方法論をようやく見つけられるのではないかなと思っています。

お二方は、こうした多元論の限界や、被抑圧者としての地方/個人についてどう思いますか?もちろん、議論のなかの別のキーワードを拾ってもらっても構いませんし、新しい問いを投げていただいても構いません。またお話を聞かせていただけたら嬉しく思います。

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さて、長々と語ってしまいましたが、今日はこれから大学の友人たちとSompasaunaへ行ってきます。そのサウナは地元の人たちが水を汲み、薪を割って運営される、小さなコモンズのような空間です。

一ヶ月後には冬休みが始まりますね!良ければデンマークにも、イギリスにも、遊びに行けたら嬉しいです。

それでは。


参考文献

Zeina MaasirおよびLaura Junka Aikioに関しては大学内での講義の内容をもとに記述したものですが、それぞれの実践については以下に詳細に述べられているとのことです。

Maasri, Z. (2020). Cosmopolitan Radicalism: The Visual Politics of Beirut’s Global Sixties. Cambridge University Press.

Junka-Aikio, L., Nyyssönen, J., & Lehtola, V.-P. (2021). Sámi Research in Transition: Knowledge, Politics and Social Change. Routledge.

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Ansari, A. et, al. (2016, June 27). Editorial Statement. Decolonising Design. https://www.decolonisingdesign.com/statements/2016/editorial/

Costanza-Chock, S. (2020). Design justice: Community-led practices to build the worlds we need. The MIT Press.

Escobar, A. (2018). Designs for the Pluriverse. Duke University Press.

Ellabbad, M., & Quinn, S. (2006). The illustrator’s notebook. Groundwood Books.

Fisher, M. (2009). Capitalist Realism: Is There No Alternative? John Hunt Publishing. (マーク・フィッシャー, & 河南瑠莉. (2018). 資本主義リアリズム: 「この道しかない」のか. 堀之内出版.)

Schumacher, E. F. (1973). Small is beautiful: Economics as if people mattered. London: Blond & Briggs. 

岸政彦. (2020). ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年12月. NHK出版.

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