2023年6月18日

「やらなければならないこと」に押し潰されそうだ。数量的には大丈夫なのだが、精神的にだんだんキツくなっている。

クソ暑い中ミスドに行った。白いポンデリングを食べたが、味を覚えていない。特別めちゃくちゃ美味しいわけでもなかったからかしら。それはそうと、ポンデリングは今年で20周年らしい。まさか同い年とは。もっと先輩かと思ったよ。じゃあこれからタメね。

ホホホ座に行った。結構人が入っていて勝手に嬉しくなった。買ったのは
①雑誌『仕事文脈』vol.22「特集 NO!論破!」(タバブックス)
②ビョン・ヨングン『今日のデザート1-3』(ポポタム)
③ビョン・ヨングン『今日のデザート4-6』(ポポタム)
の3冊。

①は前に恵文社一乗寺店でスルーし誠光社で見つからなかった雑誌。特集のテーマも良いし、もう一つの特集テーマ「通勤は続く」も楽しみ。こういう、いろんな人の「生活」の話を読みたい時期なのだ。

②と③も恵文社一乗寺店で見かけてスルーした漫画。東京の街をうろうろしてデザートを食べる、というフォーマットの短い漫画。ちゃんとしたセリフは主人公しかないのだが、セリフの内容の濃度がちょうどいいのだ。まさに「生活」だ。食べるデザートにフォーカスしすぎないのも良い。『孤独のグルメ』になってはいけない漫画だから。

左京区をうろうろしていた。この辺で暮らせたらいいな、と思う。でも、実際に住んだらあまり楽しくもないのかもしれない。というか、楽しくないだろう。私はよく「住んでいないところが都」と言う。これはまさに「住めば都」の真逆である。「住めば鄙」である。住んでいないとき、住みたいところに対するイメージは最高潮。楽園。天国。千年王国。でも、それはその土地に対する解像度が低いせいだ。実際住めば解像度が高くなって全然楽しくなくなる、ということ。

小沢健二の「流動体について」の歌詞には、こうある。

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?
並行する世界の僕はどこらへんで暮らしてるのかな
広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど
神の手の中にあるのならその時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらい

小沢健二「流動体について」

単純に読めば、作中主体は過去に「間違いに気がつ」き、生活を大きく変更したことがあるのだろう。90年代に突如渡米し2017年までシングルをリリースしなかった小沢本人と同様だ。作中主体は、そのような選択をしなかった世界ではどう生きているのか、という想像をする。歌詞では住んでいる土地が代表されている。しかし、「地下鉄の地図」を見て考えても、自分の意志ではどうにもならない「神の手の中」=この世界で生きる私たちが「できること」は、そのときそのときに「良いことを決意する」ことくらいなのだ。

これと同じことを思う。左京区を歩きながら、この辺に住む自分を想像する。あのときあれをしていれば/していなければ、今ここら辺に住んでいたのかな。でも、そのときに別の選択をするとかしないとかは意味がなく、そのとき「良いこと」を決意し選択をしたのならば、それが良い、と思う。住めば鄙、である。最近のコンテンツはマルチバースが流行だ。マーベル、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』、映像系サブスクにおける分岐型ドラマ、などなど。『エブエブ』では、すべての分岐で最悪の選択をした世界を生きる主人公が、他のマルチバースの世界ではさまざまな活躍をしているのを目の当たりにして、そちらへの誘惑に流されそうになる。でも、最後には「この世界の自分」を肯定する。「流動体について」も、肯定とまではいかないものの、諦めやニヒリズムとは明らかに異なる「世界」の受け入れ方をする。この世界も、住めば鄙、である。でも、住んでしまったらどこでも鄙、でもある。この自覚が、「良いことを決意」したのだから、というある種の肯定的態度に至る道なのかもしれない。

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