2024年1月14日 「日記の日記」

昨日はサークルの人たちとロイヤルホストに行った。初めてなのでわくわくした。初ロイホはビーフシチューハンバーグとクリームあんみつ、〆て3000円。ロイヤルホストって割と高くて普通のファミレスとは一線を画している。同じくらいの価格帯の個人のお店もある中で、ロイヤルホストって世の中的にどういう位置付けなんだろう。私の地元にはロイヤルホストがない。ロイホなしで育ってきた。そういえば、藤井隆のアルバム『Music Restaurant Royal Host』は良かった。作詞作曲編曲陣がキレキレのメンツで、でもあの藤井隆の歌声も合ってて、きっと笑顔で歌ってるんだろうな〜という感じ。

今日は文学フリマ京都。こちらも初めてなのでわくわくした。以下、戦利品。
①京都大学推理小説研究会『WHODUNIT BEST Vol.6 2013-2020』
②モナコ広告『「キリ看」で学ぶ聖書の世界 Ver.2』
③さとこ・ゴリラ『刑事の記録:ドラマ「刑事コロンボ」シリーズ全69作品レビュー本』
④小林亀朗(依田口孤蓬)『しずむ』
⑤北尾修一『調子悪くて当たり前日記』(百万年書房)
⑥水野らば『その辺で勝手に育ってくれ』

一緒に行った人は怪談本とか日本酒と電子音楽の本とかを買っていた。日本酒と電子音楽ってすごい。それぞれに良さはあるんだろうけど、一緒に取り上げているというだけでオシャレ度が増す。この世のどこかにいるんだな、日本酒をちびちびやりながら電子音楽を聴いている人。

いろんな人がいろんなものを発想して、文字に起こして、しかもそれを本という形にして売っているという事実。現代社会の豊かさの発露。何かを創作しようという崇高なる意志。私のこの日記だってその一端かもしれない。

人の日記本を読みたいという欲求がある。小説や評論と違ってざらりと生々しく、それでいて快いその手触りを思う。自分以外の人間がこの世界に確かに生きているという確信。人との会話やSNSとは違うもう一つの他者への窓口。本当は日記帳をそのまま読みたいくらい。家族や友達や恋人の日記を読んだりしたい。

人の日記を読んでいると、それまで全然思ってなかったのに、その人が書いたことを読んだ途端に、自分もそう思ってたんじゃないかと思ってしまうことがよくある。会ったこともない人に対する、ビリビリするような共感。

6月27日(日)
Tが刺される夢をみた。必死で救急車を呼ぼうとするけど、スマホをなぞる指が滑ってしまって発信できず焦っていた。最近「いまどちらかが先に死んだら慌てるから、Notionにまとめておいたほうがいいね」とふざけた話をしたばかり。だが眼前にいざ、という光景が広がると血の気が引いてしまう。Tが大切だと感じる。大げさみたいだ。この先どこかで一人になることや彼以外の誰かと一緒になる可能性がゼロとは言い切れないから、今はTのことばかり必要としているのかもしれない。いつか失ってしまったとき、過去の豊かな思い出や、充足感を思い返せるようにそうしているのだろうか。終わりが分かっているみたいで嫌だな。

蟹の親子『にき』、p43-44

この一節を読んだのは銭湯の休憩スペースで、そこには祖父・父・孫の3世代で来ている客がいた。男の子たちは従兄弟同士らしい。女の子もいた。みんな同世代だった。私のいとこたちははみんな年上だからちょっと羨ましい。面白くて良い人たちだけど、同世代だったらどういうやりとりをしていたのかな、と思う。異世界のことは想像がつかない。その男の子たちは脱衣所で服を着ながらくだらない子どもっぽい下ネタとかを言っていて、それ自体はちょっと嫌だけど、その距離感の方は側から見ていて好ましかった。休憩スペースではおじいちゃんにイタズラして、おじいちゃんも笑っていた。そういえば、浴場では男の子がお父さんの背中を流していた。え、本当にそういう文化ってあるんだ、と思ったのだった。お父さん、嬉しそうだった。

こういう他者同士の距離感を目撃することも、日記的と言えるかもしれない。銭湯の休憩スペースは日記だ!

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