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昨年、人生で最も精神状態が悪かった時に書いた、大学の授業に関する文章(エッセイ)

 夏の暑さが影を潜め、肌寒くなった今日、僕は初めて大学に行く事になった。
まだ、大学生活は従来のものに完全に戻った訳ではない。多い授業では、数百人が一堂に集まるのに、密を回避できる訳がない。自分の大学では、少人数授業だけが対面授業を解禁した。
 通学のために電車に乗る。中には沢山の人がいる。押しくら饅頭状態だ。もちろん、公共交通機関と、大学の授業を一緒くたにしてはならないと思う。けれど、正直なんだかなあと思ってしまった事は事実だ。
電車に揺られる最中、自分自身がアガッている事に気付く。よくよく考えると、対面で始めましてを言うのは、相当久しぶりの事だ。あれ、初対面の人とどう話せばいいんだっけな。元々決して高くはなかった対人スキルが、衰えている事に恐怖感を覚えた。
 電車を乗り換えるたびに、キラキラとした人が増えてきたように思えた。もしかしたら、同じ大学の人なのかもしれない。ふと、窓に反射する自分の姿を見る。ダサい。驚くほどダサい。なんだそのTシャツは。首元がダルダルじゃないか。もっとマシな服はなかったのか、と自責をして慰めないと押しつぶされそうなほど惨めな気持ちになった。何度か気分を持ち直そうとしたが、駅に止まるたびにまた新しいキラキラが入ってくるので、気分は晴れないままだった。
 大学は、駅から降りてすぐだった。迷う事がなかったので一安心だ。人がまだ少なく、道分かんないけど人波について行こうという作戦が使えないので、正直不安だったが、まあその点はラッキーと言って良かった。というか、人はそこそこいた。二時間目からの登校だというのに、結構な人がいたので驚いた。
キャンパスは厳戒態勢だった。自動で体温を測ってくれるカメラや、大量の消毒液が並べられていた。並べられた消毒液を見た時、マラソンの給水場みたいだな、と思った。
 しかし、ここまでの厳戒態勢を敷いても、あんまり意味はないだろうなと思った。というのも、生徒同士の距離が近すぎるのだ。次から次に人がやってくるので、スムーズに移動しようと、どうしても人と人の間に間隔がなくなってしまうのだ。試しに間隔を開けようとしたが、後ろから物凄い勢いで人が迫ってくる。まるでバファローの大群のようだ。
 別にまあ、ここで間隔を開けよう、と自分を貫き通すほどソーシャルディスタンスに対して強い思いを抱いてる訳ではない。なので、ここはなんとなく周りに流されておく事にした。逆らう事そのものに抵抗はないが、逆らった時に浴びせられるであろう、「何故」に対抗しうる知識とか思いみたいなものがなかった。
 初めて踏み入れた校舎(複数あるうちの一つ)の感想としては、コンクリだな、だった。   
 建物は、コンクリの打ちっぱなしで、なんとなく冷たい印象だった。この無機質なコンクリートの感じは、人工的でつるんとしていて、近寄りがたい感じだ。けれど、この冷たい感じが打ちっぱなしから来ているものだけではない、という事が徐々に分かってきた。
 要するに、静かすぎるのだ。確かに、授業中なので静かにするのは鉄則だ。だが、教室の外で待つ人の数に比べて、明らかに会話の数が少ない。これまで、高等学校という動物園よりうるさい場所に通っていたので、そこと比較してしまっているというのはあるかもしれない。けれど、所詮大学生は高校生に毛が生えた存在だ。猿から尻尾をとっただけの生き物がいてもおかしくない。というか、それなりに人がいるのに階段を登るコツコツ音まで耳に響くのは、やっぱり少し異質だと感じた。
 違和感を拭えないまま、教室前に着く。まだ授業中だったので、大人しくしてる事にする。教室前には、おそらく自分と同じような目的の人々が大勢いる。多分、これが僕のクラスメイトなのだろう。けれど、互いに話を切り出す訳でもなく、スマホをいじったり落ち着かなさそうな動作を見せているだけだった。
 かくいう自分も、どういう距離感で接せばいいのか計りかねていた。おそらくSNSで関係を構築した数人のグループが楽しげに話していたのも気まずさに拍車をかけた。すでにグループを作っている奴がいるという事実が、自分が輪の外にいるという感覚を強くさせた。でもここでグイグイいって引かれたくもないし…、でもなあこのままでいいのかなあ、という空気が蔓延していた。
 個人的には、SNS上のスタートダッシュに乗り遅れた時点で全てを諦めたので、それを蚊帳の外から眺めるという性格の悪い状態になっていた。これはもう、来年までニートをやって、登校が完全に復活してから動いた方がいいな、という発想だった。もちろん、話しかけれたらそれなりの対応をするし、友達になってくれと言われたら断るつもりもない。ただ、こちらから能動的に動く気はなかった。
 そうこうしているうちに前の授業が終わり、教室に招かれた。教室は、一つとばしで席が用意されていて、机を拭くためのアルコール除菌の液体とキッチンペーパーが用意されていた。絶対にコロナは出したくない、という気持ちが現れていた。まあ、我が大学は不名誉ながらコロナ陽性者を春に出しているので、当然と言えば当然だった。
 偶然か否か、教室は右と左でヒエラルキーが分かれていた。教室を半分に割り、教壇から見て右側がグループで固まってる人々、左側がぼっちの人々という感じになった。これは、前のクラスが終わった瞬間、グループの人達が行こうぜ、と仲間を誘って教室に入り、奥の方である右側に詰めて座っていく。その後、情報が遅れたぼっち達が空いている左側に座るという事が発生したためだと思われる。こんな所で、ぼっちが生きる上で不利になる場面の象徴のようなものが見れるとは思わなかった。みんなは面倒でも人と関わった方が、情報とかの面ではラクだよ。
 そのうち授業が始まった。教師は、皆に会えた喜びを語った後、コロナのせいで幾つかの授業を削る必要があるので、テンポ良く授業を進めていくと言った。
 しかし、このテンポよく授業を進めていくという点に、欠陥があったのだと思う。結論から言えば、対面授業再開は成功とは言えない状態になってしまった。
 要するに、テンポ感を意識しすぎた授業と、オンラインで今まで受けていた授業の質がそこまで変わらないのだ。情報がマシンガンのようにこちらにやってきて、それを必死にノートに書き留める。結局のところ、構造が全く同じものになってしまったのだ。
 元々、対面授業再開を急いだ理由が、オンライン授業は質が良くないという問題への対処だったのに、蓋を開けてみれば対面授業もオンライン授業も根本は変わらない、という状態になってしまっている。
 もちろん、対面授業にもメリットはある。教員からしたら授業の準備は圧倒的に楽だろう。生徒からしても、同学年の人間とのコミュニケーションの幅が広がるチャンスとなるだろう。
 ただ、言わなくてはいけないのは、生徒間のコミュニケーション促進に関しても、作用しているかどうか怪しいという点だ。
 SNSが発達した今、友達は入学前に作るものである。例年でも多くの新入生が、同じ大学に入学する人を見つけ、そこで友達を作る。さらに今年は、サークルの勧誘などもSNSが使われた。要するに、友達が欲しい人は対面授業の前に自力で作っているのだ。残ったのは、筆者のように行動を起こさなかった人々で、こういう人々は対面になったからと言って積極的に話しかける訳ではない。
 笛吹けど踊らず、とはまさにこの事だな、と思った。もちろん、手は黒板の文字をひたすら写していた。
 授業が終わり、自由時間になった。特に盛り上がる訳でもなく、皆それぞれの方向へ散っていった。先に述べたグループ勢は飯を食べに、ぼっちは家に歩いていった。
 帰り道、ふと自習室の中が目に入った。なんだかよく分からないが、人によってはオンライン授業を大学で受けなくてはならないらしい。部屋の中の人々は、特に間隔を空けてはいなかった。ここでも教員と生徒の意識の乖離を感じた。
 帰りの電車の中、ふとうちの大学の校舎はいくつあるのだろうと思い、調べてみた。結構な数あった。けれど、自分が今後足を踏み入れるのは一つの校舎だけだ。多分、他の校舎に立ち入る事は生涯ないだろう。それで他の代の人間と同じように社会に放り込まれるのは、なんというか不思議な気分だった。
 今のところの結論としては、ぼっちはキャンパス行く価値ないよね、という話である。とはいえ、もうしばらく行ってみて本当の結論を決めたいかなというのが今の気持ちだ。まあ、とりあえず勉強しますよ。
 

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