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12年、わたしはまだあの日を許せない。

12年が経った。
わたしはまだ、あの日を許せない。

3月11日になっただけで、猛烈な絶望感とどうしようもなさが身体に染みわたる。14時46分に近づく度に、指先が凍えて震えるようになる。忘れないで。絶対に忘れないで。わたしがもう忘れてもいいように、あなたがずっと忘れないで。どれだけ願ったって、わたしは、わたしの記憶から逃げることができない。

当時、わたしは小学4年生だった。授業参観で行われた半分成人式には、教室で卵サンドをつくって食べた。小さな町の、海辺の小学校だった。特別好きでも、嫌いでもない町だった。日々は平凡で、悪さしたらすぐバレるのが鬱陶しかった。近所の大工のおじちゃん家によく遊びに行った。古びた精肉店の、ハムカツはいつも美味しかった。どの庭にも大きい犬がいた。自分の力で、いつかこの町を出るんだと思っていた。

ほんの一瞬だった。あの瞬間が、ほんの一瞬が、天国も地獄も分けてしまった。そこに選択権はなくて、今までの人生で一番死にたくないと思った。生まれてからほとんど一緒に育った幼馴染みは、最後に泣き叫んでいた声しか覚えていない。元気?あれから何してる?どこにいる?いま幸せ?世界中どこでもいいから、ただ生きていてくれたら。

父や母は教師だから、勤めていた学校の子供たちが最後のひとり迎えに来てもらえるまで、わたしたちの元へ帰ってこなかった。携帯もつながらない瓦礫だらけの家で、長い長い夜を明かした。幸い無事だったけれど、もしそのままいなくなってしまっていたら。そんな最悪な想像を与えてくるこの日のことを、また許せなくなる。

原発が事故を起こした。ガスマスクをした人がヘリコプターから降りてきた。着の身着のままのわたしたちは、体育館の床に薄い毛布を敷いて、配られたべちゃべちゃのおにぎりを食べ、水を飲んだ。変な色の薬を喉の奥に入れられた。隣で泣いている赤ちゃんと遊んで、入り口に貼り出された無秩序な避難者名簿から必死に名前を探した。ラジオが途切れ途切れに聞こえてきたけれど、お腹がすいていて何を言っているのかわからなかった。

それから、いくつかの場所を転々とした。親戚の家の5畳半の部屋を借りて、両親と兄と4人で雑魚寝した。両親は近くの避難場所を回って、子供たちのケアをした。わたしは「自分だけあたたかい場所にいるのが申し訳ない」と小さいメモ帳に書いていた。毎日増えていく死者数カウント、放射線量、気が狂いそうなくらい同じCM。避難先の小学校では、被災児童の激励とか行って、新聞もテレビも取材にきた。わたしは恨めしいほど、特別だった。

雨の日、クラスメイトが口をあけて天を仰ぎ「放射能食っちゃった!」と言ったときは、心の底から「バーーーーーーーカ」と思ったけど、ゲラゲラと笑った。何も知らない子供が嫌いだった。その原因になっている残酷な大人も嫌いだった。建前でいい顔ばかりする人間が、みんな嫌いだった。自分がそこにいる理由が何もわからなかった。

県内に戻っても、バイ菌みたいに揶揄われた。むしろ、被害のなかった場所よりも余裕がない被災地は、誰かに優しくできる方が珍しかった。仕方なかった。朝の読書タイムだけがずっと平穏で、テストで満点をとれる自分だけが裏切らなかった。卒業式で大声で叫ぶアレは、ほとんど思い出がなかったから「わたしたち55名は」というセリフを選んだ。「もう生きていたくない」って1度だけ保健室で号泣したけど、助けて欲しいんじゃなくて、あれは散々にぶちまけた憎しみだった。

大学受験のとき、私立を希望したら「賠償金があるからお金のことは大丈夫でしょう?」と先生に言われた。英語ができる、美しくて尊敬している先生だった。「もっと安定していて、人のためになることをした方がいいんじゃないか?」と言われた。社会で教鞭をとる、博識な先生だった。みんないつも通りの顔で、いつも通りの声でそう言った。疑問を投げかけ覗いてくる顔は、能面みたいに見えた。

わたしはただ、未来の話がしたかった。みんなと同じように、あの瞬間何もなかったように、自分の未来や希望だけ考えて夢の話がしたかった。たしかに、数えきれないほど支援してもらった。感謝の手紙も数えきれないほど書いた。ただ、わたしは助けてもらったから、ずっと顔も浮かばない誰かに恩返しするために生きなければならないのかと思ったら、そんな人生は馬鹿みたいだった。助けたい人たちの気持ちを積み重ねられるほど、大きな背中じゃなかった。

月日は流れて、東京の街へ出た。よくも悪くも、そこにあの日の面影はなく、ただ普通の毎日が淡々とながれている。いつかくるその日を恐れる気持ちは静かに地面を這うが、そんなこと忘れてしまうくらい毎日は忙しない。耳をつくような爆音が街中に響いて、わたしは幼いとき理不尽な経験をしたただの田舎の女の子だった。強いていうなら、あの地獄みたいな日々を、地獄みたいに話しても悲しむ人がいないから楽だった。泣いても喚いても、わたしだけが、わたしが一番、可哀想、それが楽だった。

12年をかけて、自分の「死にたさ」みたいなものにはじめて触れている。わたしの人生は、運悪く災害に遭って、原発事故で被曝したけど、今は普通に暮らせているし、何なら贅沢なほど充実してる。泣いてしまうほど幸せな日もあるし、命懸けで守りたい人もいる。それでもやっぱり、あの日からの記憶は真黒だ。地震が来るたびにフラッシュバックして、もうおしまいだったらいいのに、と何度でも思う。

誰を憎んだらいいのかわからない。憎むものがない。いじめてきた人も、傷つけてきた人も、みんな声だってもう思い出せない。なにも恨むことが出来ないのに、どうしてもこの日だけは苦しい。お偉いさんが復興の結果を語るほど、あの日が遠くなってしまった。わたしはまだあの日にいるのに、忘れちゃいけないわたしたちをだけを置いて扉が閉じられていく。絶望は薄れていかない、その事実だけが確かに残っている。

春、大学を卒業する。住所も、全く知らない新しい場所に変える。記憶は消えないけど、社会に出て、何者でもない人間として生きていく。朝晩働いて、大好きな人と変わらない日々を暮らす。あの日夢見た、わたしのための人生を歩むために生きていく。

来年も再来年も、死に際まできっと、わたしはあの日を許すことが出来ないけれど、重なっていく光を握りしめて生きていく。いつかまた来てしまう絶望が、怯んでしまうくらい鋭く睨んで生きていく。3月11日は、わたしにとってその決意の日だ。震える記憶は治らないけれど、地面を踏み締めて進んでいく。

今日という日が、何もありませんように。みんながみんなの場所で、笑ったり泣いたり、怒ったり、いつも通り眠りにつき、朝を迎えられますように。多くのいのちに、陽だまりのような祈りを。




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