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最後の授業

マタイ26:30-36

目標を立てて、それが実現することを信じて、喜びながらなすべきことにまい進する。それができたら、こわいものはないかも。

イエス・キリストと一緒に過ごして、多くのことを学んできた弟子たちは、ちょうどそんな感じでまい進中だったかもしれません。

ところがイエス・キリストは、高価な香油を無駄に捨てるような女の行為に対して「わたしの葬りの用意」と語り、二日前には「人の子は十字架につけられるために引き渡される」と予告し、楽しいはずの過越の食事では、「わたしのからだ、わたしの血」と言ってパンを裂き葡萄酒を飲むのでした。

弟子たちには、イエス・キリストの死のイメージが次第に強く埋め込まれていくような流れ。

さて、過越の食事、最後の晩餐の最中にイスカリオテのユダは中座して出て行ってしまいます。彼がどこに行ったのかを知らず、すべてを終えた他の弟子たちは、イエス・キリストと共に外に出かけます。

数時間後にはイエス・キリストは捕縛され、翌朝には十字架にかけられるのです。弟子たちは、まだそのことを知りません。いや、そんなことは起こらない、と思い込もうとしていたかもしれません。

そんな弟子たちに、最後の晩餐のさなかに行われた、最後の授業。

1.賛美をして出かけた弟子たち

「賛美」は、神のすばらしさ、神のなさったことのすばらしさをほめることが第一の目的の「歌」です。

旧約聖書の詩篇を見ると、「聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌」のように、歌の指定が書き添えられているのが多数あります。たぶん、弟子たちはそのような詩篇の歌を口ずさみながら、歩いていたのでしょう。

彼らは、心から神をほめる気持ち、であったかどうか。

過越の祭の意義を思い返すなら、神が自分たちの先祖になさった偉大な出来事のことで、神をほめる、となったでしょう。でも、その時の彼らの状況は、ローマ帝国の支配下にあって、決して自由とはいえないものでした。それでも、今、この時も、神は偉大なことをして下さっている、と、神をほめたたえていたか。

あるいは、まもなくイエス・キリストが奇跡を起こして「王」となって帝国を覆すのだ、と信じ、無邪気に神をほめたたえていたのか。いざ出立!と壮行式を行うかのように、元気づけに一発、歌を歌ったのかもしれません。

ヨハネ福音書を読むと、マタイがこの後に書いている出来事は、弟子たちがまだ食事の席にいる間のことだったとわかります。「そのとき」というのは、外に出てからの事ではなく、食事の最中のことでした。


2.「散らされる」予告

イエスが弟子たちに語った「予告」は、二つありました。

一つ目は、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。」

「つまずく」というのは「正しい行動・考えをさまたげられる」の比喩的な表現だそうです。こけちゃいました、とは、ちゃんと走っていたら言わない言葉です。

つまり、イエス・キリストが原因で、弟子たちは皆、正しい行動ができなくなってしまう、というわけです。それが、「羊飼いが打たれ」る出来事が起きて、「羊の群れは散らされる」はめになることです。

羊飼いについていくのが羊の群れです。それが正しい行動。でも、羊飼いは打たれてしまいます。羊の群れは、もはや、羊飼いについていくことができなくなります。散らされてしまう、というのです。

これまでのイエス・キリストの予告を思い出して、弟子たちはそれが何かを悟ります。「十字架につけられるために引渡される」。

二つ目の予告は、「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。

半年前ほどから、これもイエス・キリストが弟子たちに繰り返し語っていたことでした。

この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。(マタイ16:21)

彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、 23彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。(マタイ17:22)

「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。(マタイ20:18-19)

弟子たちの反応を見てみると、死に対する怯えがずっと強く、すぐ後に続く「よみがえる」ことには全く気持ちが向けられていませんでした。ここで、最後にイエス・キリストがよみがえることを告げて、はっきりと「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われても、弟子たちは一様に、「わたしはつまずかない!」と言うばかりです。

特に、弟子の筆頭ペテロに至っては、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と、自分だけは、と強がってみせます。

そのペテロへの最後の特別授業がなされます。


3.あなたを知らないなどとは言わない…

十二弟子の中の一番弟子を演じていたペテロ。もしかしたら、一番の年長者だったかもしれません。負けん気も、だれにも負けない。だからこそ、「たといほかのみんなが…」という言葉が出てしまったのでしょう。

イエス・キリストは、どんなふうにペテロに語ったのでしょうか。

「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」

なぜおまえはそんなにも物分かりが悪いんだ、自分の非力を思い知れ!! と怒りを込めて?

いつまで自分の真実の姿を見ようとしないのか、かわいそうなやつ、と憐れみを込めて?

それとも、これがあなた個人の最後の試練だ、そのあとの立ち上がりが楽しみだ、と期待を込めて?

ペテロの返事は、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。

「つまずく・散らされる」という予告には「決してつまずかない」と答え、「知らないというだろう」との予告には、命を懸けて、知らないなどとは言わない、と、強気ばかりの返事でした。

キリストは死ぬはずはない、王となって全民族を支配するのだ、との信念を強く持っていたからこその、答えです。「羊飼いが打たれる」ような事態になっても、ペテロは自分で守るつもりだったのでしょう。

すべては、聖書の預言の通りにキリストが現れ、今まさに王になろうとしてエルサレムにいるのだ、自分はこのキリストに命をかけて従っていくのだ、という信念からきていたのです。

ちょっと先まで聖書を読むと、これがどうなったのか、わかります。すべて、イエス・キリストが予告したとおりになっていくのです。そして、この経験は、弟子たちのその後の活動には不可欠なものでした。

自分の思い込み、自分の都合に合わせた聖書の解釈は、現実の神のなさろうとすることからかけ離れていってしまいます。自分の願いがかなえられるようにキリストが動いてくれることを期待していた弟子たちは、バラバラになってしまうのでした。

信じること自体が尊いのではない、神がこうしようとおっしゃっていることを、その通りに信じることが重要なのだ、ということを経験して、新しく生まれ変わった人間として立ち上がり、歩み始めるための、最後の授業だったのです。

マタイ26章30-36節

彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。

イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。 35ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。



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