迫害社会?いえ、天国です
マタイ5:10 ~いつでもどこでも、今、実現する天国~
害が迫る。それが迫害。良いことをしたら良いことが来てくれるだろう、と思っていると、失望してしまう。
逆に、害悪が来るのは悪いことをしたからだ、と思っていると、何が悪いのか、だれが悪いのか、とそれを探し始めてしまう。
正しいことをして、しかも最高の愛をとどけても、迫害されることがある。今まで出会った人で、やっぱりイエス・キリストがその頂点。そのキリストの言葉。
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、天国は彼らのものである。
雨のち晴れ、だったら、死の後に復活がなければおさまらない
天国を、けっこう安易に思い描くことができちゃうのは、やっぱり、キリストの復活があって、「死んでも生きる」と言われた言葉が、世界中に、たとえ見えなくても、直接聞こえなくても、コダマしているからじゃないだろうか、と思ってしまいます。
3世紀。キリスト教徒に対して大迫害が起こったローマ帝国。当時、疫病も広まっていて、キリスト教徒にとっては、疫病で死ぬことも迫害で死ぬことも、すぐそばにある死でした。それで、疫病で、恐れのために誰からも看病してもらえなかった人を、積極的に看病したのが、キリスト教徒だったのです。迫害だからと逃げ、隠れていたら安全だったでしょうが、そうはせずに、看病のために表に出て行ったのでした。
キリストによる復活の望みがあったからです。
4世紀、キリスト教はローマ帝国で公認となり、最後は、国教になります。
西暦28年頃。弟子たちが、「義のために迫害されてきた人たちはさいわい」と山上の説教で聞いた時には、キリストの復活は、まだ先の話。
でも、ユダヤ人にとって、復活は世の終わりに起きるという現実の希望だったし、義のために迫害された人々と言えば、旧約時代の預言者たちをすぐに思い浮かべられたでしょうから、そうした「義人」が「さいわいである。天国は彼らのもの」と言われるのは、「そうだ!そうだ!」「アーメン! アーメン!」(アーメン、とは、そのとおり!、と言う意味)と叫んだろうと思います。
いつまでも雨が降り続くわけではない、いつまでも夜が続くわけではない。必ず雨がやんで光が差し込む時が来るし、朝もまた来る。本当にそう思えるのは、神のなさった事実に基づいているからです。
預言者と同じように見なされる弟子たち
でも、注意して見てみて気がつくのは、「あとで雨が止む、あとで朝が来る、今は我慢の時」、と言うのではなく、「天国は彼らのもの」という、現在形で書かれていること。
将来のことを今見ているように書き記す預言の表現、と言うのはもちろんあるのですが、将来を夢見るだけではなく、今の天国を忘れてはいけないのかも、と思わされます。
しかも、ここで山上の説教を聞いているのは、昔の神の預言者ではなく、漁師だったり、世間から罪びと呼ばわりされていた人たちでした。昔の預言者と同じように「さいわい」とされているのは、そんな普通の人たちなのです。
そして、この時点では、イエス・キリストも弟子たちも、まだ迫害にはあっていません。この後のことを予見して、の言葉です。弟子たちがこの後どんな風に活躍するようになるのか、本人たちにはまだぜんぜんわからない時の教えです。
たぶん、この言葉を聞いても、すぐにはピンと来なかっただろう、と、想像されます。
でも、困難が来るだろう、という漠然とした意識は弟子たちにもあったでしょう。天国、神の国の樹立のために戦うのだ、という気概もあっただろうと思います。弟子たちは、イエスが、旧約聖書で預言されているイスラエルの「王」、「救い主」だと信じたからこそ、従うようになった人たちだったからです。
ローマ帝国からの独立を勝ち取るための戦いがいずれある。そんな気持ちを燃え立たせてくれる言葉になったかもしれません。「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」
その弟子たちが、ほんとうの「さいわい」を知るようになるのは、キリストの復活のあとでした。
永遠の命の約束と保証
イエス・キリストの奇跡の中でも、特別に不思議な奇跡は、死んだ人を生き返らせる奇跡です。
最初は、母子家庭の一人っ子の男の子。死んで、町の人たちが皆一緒に泣き悲しんでいるところにイエスがやってきて、その場で男の子を生き返らせます。
次は、ユダヤ教会堂(シナゴーグ)の指導者の一人娘。ひどく衰弱してしまって、イエス・キリストに助けをその指導者が求めに来て、イエスを家に連れて行こうとしている途中で、その娘の死の知らせを受け取ります。その娘を、生き返らせるのです。
三番目は、ラザロ。重病の知らせを、姉たちがイエスに届けます。でもイエスはすぐには行こうとしません。死後四日目、まだラザロの死を悼む人々が家に大勢いるところに到着。墓に行って、大声でラザロを呼び出し、生き返らせたのでした。
死んでも生き返る。弟子たちは、これからどんな戦いになったとしても、恐れることはない、と、思ったかもしれません。イエスがいる限り!
でも、そのキー・パーソンが捕らえられ、十字架にかけられて死んでしまいます。弟子たちは、絶望しかありません。「十字架にかけられて死ぬ、でも三日目によみがえらされる」と、何度も予告され、聞いていたはずですが、だれ一人、イエスの復活を期待する人は、いませんでした。
生き返らせてくれる人がいなくなってしまったのですから。
ユダヤ人である弟子たちは、この時、大事なことをすっかり見失っていたのです。
事を行ってくれるのは、神である、ということ。
イエス・キリストがいなくなってしまって、頼れる人がいなければ、なにもできない、はじまらない、と思い込んでしまっていたのです。神がイエス・キリストをよみがえらせてくれる、とは、信じられませんでした。
目に見える、眼前の人がいろいろ奇跡を起こしてくれるから、だいじょうぶだ。イエス・キリストに従っていた弟子たちは、いつしか、そんな風に思い込んでいたかもしれません。
キリストの目的は、弟子たちが神によって造りかえられることでした。いにしえの預言者たちが神の働きをしたように、その預言者と同じような者とされること。神がいつも共にいて下さって、自分たちが神の働きをするようになること。
よみがえったキリストに会った弟子たちは、以前に生き返らされた人たちとは全く違う復活を目にします。もう、本当に死ぬことのない永遠の命のからだによみがえったキリストは、40日後に天に引きあげられらのでした。
復活のキリストに会って、弟子たちは、生まれ変わります。自分たちが、それまで聞いてきていたキリストの言葉を伝える、神の働きをする者とされたことを知ったのです。自分たちは今、天国にいる、神の国にいるさいわいを知ったのです。
彼らは、神の御子イエス・キリストを信じたのでした。
2021年は、5月13日が「キリスト昇天記念日」。(毎年変わります)
天国は、今まさに、復活のキリストの弟子たちのものなのです。それは、どこかの宗教団体に属しているとかしていないという問題ではありません。「心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とパウロが書いたように、だれでも、キリストの復活から天国を望み得るようにされているのです。
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
ローマ人への手紙10章9,10節
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?