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動機付けと師弟関係

(参考:創造的な聖書の教え方 第11章「学習者に動機付けを与える」)

聖書を教えるとは?実は聖書を学ぶこと。そのプロセスを決めるのは、教師と生徒との関係、鴨と思う。

下記の続きです。


聖書教育において、「動機付け」こそが目標の一つといえるかもしれない。

キリストの「新しい戒め」は、「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)であった。

神を愛することと、互いに愛し合いなさいという神の命令とは、切り離すことはできない(1ヨハネ2:5;5:3)。

偉大な神への信仰によっても、未来を支配する神への希望によっても、人は、御言葉を実行しようとする思いを持つことができるし、それは正しいアプローチである。1コリント13章は、人が神に仕える賜物として、動機としての愛について語っていると見ることができる。「もっとも大いなるものは愛である。」(1コリント13:13) 神に愛されていることをより深く知ることが、動機づけとなっていく。

積極的な聖書の学び、学びに沿った発言を自発的に行うこと、それを引き出すのは、聖書の学びに参加したいという願望であり、それによってより深く神の愛に触れたいという願望でもある。

動機付けにおける個人的要素

教師-生徒の関係

パウロが相手との信頼関係を築くこと:神とその人との「信頼関係」の導き手として

ピリピ 1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。 24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。 25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。
1テサロニケ 2:7 むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。 8 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。

教師は「権威者」か? 教師が、生徒の問題を解決し、統制し、命令し、決定するのか。

そうではなく、生徒と一緒に学ぶ者。問題を解決してくださるのは神であり、神が統制し、命じておられることを理解し、自発的に従うことを、具体的な適用を通じて身に着けていく。

神が教師を通して語りかけると同様、生徒を通しても語りかける。生徒のグループ内で、互いに励まし合う仲間となる (いずれこの生徒も教師となることを期待することにもなる)

共同体

生徒が互いに生活の中の適用すべき領域を語り合う雰囲気:互いに受け入れ合う、共感し合う関係。教師が受け入れる態度を取っているところからスタートする。

御言葉をともに学ぶ交わりが形成されるには、数ヶ月の時間がかかるかもしれない。教師は、その時間を忍耐しながら、生徒の発言を促す(強制にならないように)。


動機付けにおける構造上の要素

学習が形作られている

お話の中の「釣り針 HOOK」で生徒が目標を認識する。生徒に意味のある目標を設定する。生徒とその目標を共有することで、動機付けをする。

それ以降の活動は、はじめに設定された目標を実現するプロセスとなっている。

生徒が自分にとって適切な目標であると理解する

クラスが生活の観点から聖書真理を意味深く探究し始める。

自分がマスターしている意識

教師からの一方的な語りかけだけでは、生徒が自分で理解しているかどうかを知る機会がない。どの程度理解しているのかを、自分で語ることで示す。

わかっていないことが他人に知られることを恥ずかしいと思う雰囲気がないように導く。「わかりません」と神様に祈る気持ちを共有。

受容性のあるクラスで、人は発言する。(教師は生徒の発言に対して過ちをほとんど指摘しない。生徒がマスターすること、自分で気が付くことを目標としている)

成果を生活の中に見る

応答し、実行した結果を経験する。そのことがさらに動機付けとなる。


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