野淵昶ものがたり(3/3) ~京都の花街、松竹新喜劇に貢献し、『月光仮面』の監督を誕生させた舞台の匠~
皆様、ごきげんよう。弾青娥です。
こちらの記事は、以下のリンクで示したような野淵昶のシリーズ記事のフィナーレを飾るものでございます。
今回は第二次世界大戦後の野淵昶の活動と功績を、映画監督以外の面で見ていきたく思います。
舞台に情熱を再び注いだ野淵昶
エラン・ヴィタールの復活
1935年からの映画監督としての活動と並行して、野淵は舞台の演出にも携わっていました。歌舞伎の舞台と、様々な劇団の商業演劇のために演出を行ないました。
第二次世界大戦後も、その活動の幅は変わらず、野淵昶は映画と舞台の世界で活躍します。そして、1949年と1950年に野淵はかつて自身が主宰していたエラン・ヴィタール小劇場を復活させます。
しかし、顔ぶれは野淵昶の映画作品に登場した俳優が中心でした。大岡欣治著『関西新劇史』を参考にすると、上演作品と参加者は次の通りです。
※出演俳優の右にリストアップしているのは、公演までに出演した野淵昶の映画のタイトルです。
1949年5月30日(京都・京都座)
菊池寛「屋上の狂人」 演出・加戸敏
田口竹男「賢女気質」 演出・野淵昶 助手・若杉光夫
加東大介・・・・『千姫御殿』
藤代鮎子・・・・『好色五人女』
大伴千春・・・・出演作なし(同年8月公開の『幽霊列車』に出演)
南部省三・・・・『大尉の娘』から『生ける椅子』まで計10作品
1950年1月27日、28日(四条河原町公楽会館)
倉田百三「出家とその弟子」 演出・野淵昶
加東大介・・・・『千姫御殿』、『女殺し油地獄』
大伴千春・・・・『幽霊列車』
月形龍之介・・・『長崎留学生』から『女殺し油地獄』まで計10作品
南部省三・・・・同上
原聖四郎・・・・『長崎留学生』から『生ける椅子』まで計9作品
阪東好太郎・・・『好色五人女』、『女殺し油地獄』
京町みち代・・・出演作無し
※主な出演俳優のみ記載。
2回目の公演に関しては、映画監督の沢島忠が詳しく述べているので、ここに引用します。
野淵昶は第二次世界大戦後、同志社大学で演劇映画概論を講じていましたが、その野淵に師事していたのが沢島忠と花登筐でした。
上で引用している著書によると、沢島は野淵の『幽霊列車』(1949年)にてプライベート助監督を務めて撮影現場でも仕事をしていました。
エラン・ヴィタール復活の失敗がもたらした契機
すぐ上の小見出しに示しているように、エラン・ヴィタールの復活公演は成功を収められませんでした。『沢島忠全仕事』によると、「戦後二回目の公演をもったが、此の夜の講演で解散に追い込まれた。経済状態、食料状態の不安から来る観客の不入りが原因だった」とのことです。
「助監督の募集はなし、その上劇団が解散で益々お先マッくら」と当時の「混沌とした戦後の京都映画界」の惨状をも、当時の沢島は嘆いていました。しかし、野淵のエラン・ヴィタールの復活の試みは沢島にトンネルの先の光を見出させることになります。
出演俳優の一人だった月形龍之介に誘われ、沢島は残念会に参加しました。東横映画撮影所のお偉いさんも参加していたこの会合にて、渡りに舟といえる月形の発言を耳にします。
すると、それを聞いた東横映画お偉方たちは、当時に助監督が一人足りていない渡辺組(渡辺邦男)に加わってもらうように話をつけました。
そうして、沢島忠は本格的に映画界に入ることが叶い、後年に任侠映画の名作や、美空ひばり主演の『ひばり捕物帖』シリーズを撮るようになりました。
『月光仮面』の監督誕生を支えたエラン・ヴィタール
人生の転機がもたらされたのはエラン・ヴィタールに参加した人物だけではありませんでした。当時の観客のなかにも、該当する人物が一人いました。後に『月光仮面』の監督を務めることになる船床定男です。
「国民学校高等科を卒業後に演劇青年となった」というような記述が2022年6月22日現在のWikipediaで認められますが、その演劇に熱中するきっかけを与えたのは他ならぬ野淵昶の率いるエラン・ヴィタール小劇場でした。
(参考文献:樋口尚文著『「月光仮面」を創った男たち』102ページ)
船床は、『幽霊列車』や『女殺し油地獄』などの野淵映画の助監督を務めた加藤泰が率いる劇団こうもり座に入り、加藤のもとで宝プロダクションの助監督になって、映画界入りを果たします。
その後の船床は綜芸プロダクションに移籍し、そこで西村俊一と出会い、彼の企画した『月光仮面』の監督を任されます。日本におけるヒーロー番組の先駆けになったドラマが人気を博したのは周知の事実ですが、野淵の演劇活動が無ければ、今知られているような『月光仮面』は存在していなかったかもしれません。
祇園をどり
野淵昶の寄与は、京都の花街のをどり公演にも及んでいました。京都には、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東の五花街があります。そのなかでも、祇園東(当時の名は祇園東新地)の九回目の秋の温習会のために、野淵は舞踊劇「式部と亡霊」を作ります。この作品は1951年10月25日から29日まで、日本画家の梶原緋佐子による美術考証のもと上演されました。
翌年1952年の6月には、京マチ子、森雅之主演の映画『滝の白糸』で野淵と梶原のタッグが再び実現しますが、この年は野淵が、現在も続く祇園東の公演「祇園をどり」の初回(1952年)に新作の番組を提供する重要な年にもなりました。新聞の報道を確認すると、公演の詳細は次の通りです。
上掲の『京都新聞』では10月21日から30日まで毎日2回の公演があると紹介されました(当時の名称は「祇園おどり」でした)。
『京都新聞』では、野淵がすべてのプログラムを仕上げたことになっていますが、白川書院の月刊誌『京都』の第26号(1952年12月1日発行)を参照すると、「京井筒」(清元)、「日向平家」(長唄)、「柳」(常盤津)の3つのシナリオを仕上げています。これらに加えて上演されたのは、「京都アルバム」で、振付も担当する藤間良輔が完成させたものです。
なお、梶原緋佐子は、同じく日本画家である後藤貞之介、海老名正夫とともに舞台・衣裳美術を担当しました。
翌月初めの『朝日新聞』京都版は、日を重ねるごとに増していく人気に触れつつ、追加の公演について報じています。
……という風に、10月31日の朝に追加公演が設けられたことが分かります。
ちなみにですが、このように野淵昶が祇園東に貢献したのを知ったのは、ロード・ダンセイニが観たトンデモ「日本」戯曲であるThe Darling of the Godsの研究をきっかけに「本物の芸舞妓を見たい」と思い、2016年度の祇園をどりを観に行った後のことでした。ダンセイニ研究から野淵昶研究が始まった私でしたが、ダンセイニ→The Darling of the Gods→祇園をどり→野淵昶……という流れで、複数の関心事項および研究事項がつながってくるというのは驚きの偶然の連続でした。
松竹新喜劇
こちらは、この「野淵昶ものがたり」シリーズの前回記事のラストで公開していたパブリックドメイン写真に関係する項目です。
野淵昶は1950年から1956年まで松竹新喜劇に作品提供、また演出という形で寄与します。藤山寛美、そして二代目渋谷天外というスターが活躍している時のことでした。
後に野淵昶が松竹新喜劇に提供した作品のリストを掲載しますが、注目すべきは1953年の南座公演の小冊子『京舞台』10月号です。この冊子に寄稿した記事の中で、野淵昶は二代目渋谷天外から喜劇を作るように頼まれたことを明かしつつ、そのアイデアをひねり出す最中に自身がかつて上演した西洋の戯曲を思い出したことを次のように語っています。
アイルランド文学愛好家としては、ショーン・オケーシーの作品が還暦に近い野淵の頭に浮かんだことが嬉しいこととして捉えることができます。とはいえ、この記事からは西洋の喜劇を拝借する案を没にできる野淵の冷静さも確認できます。(高いびきをかく妻のことを言う必要があったのかは疑問ですが。)
松竹新喜劇に提供した作品リスト
先述していたように、以下に野淵昶が松竹新喜劇に提供した作品を列挙いたします。※印付きのものは演出にも携わった作品です。
1950年
「アプレ大王」(11月1日~26日、中座)1951年
「アプレ大王」(1月1日~25日、南座)
「未亡人の幻想」(3月2日~26日、中座)
「アプレ大王」(5月2日~21日、名古屋・御園座)
「ミイラ失踪」(6月1日~25日、南座)1952年
「平中と女狐」(2月29日~3月26日、中座) ※
「偽作デカメロン」(4月1日~24日、中座) ※
「アプレ大王」(5月1日~15日、新橋演舞場)
「平中と女狐」(5月17日~6月1日、南座) ※
「安達元右衛門」(8月1日~24日、中座)1953年(全作品、制作および演出)
「彼と情婦」(6月3日~27日、中座)
「彼と情婦」(7月2日~23日、南座)
「旧人新人」(9月4日~28日、中座)
「旧人新人」(10月1日~27日、南座)
「木曽殿漁色」(11月1日~23日、南座)
「未亡人の幻想」(11月1日~23日、南座)1954年(全作品、制作および演出)
「温室の花」(1月1日~25日、中座)
「ややっこしい街」(3月2日~26日、中座)
「ややっこしい街」(4月3日~26日、南座)
「失恋と得恋」(5月1日~25日、中座)
「吉田御殿」(11月、帝国劇場)1955年
「屋上の狂人」(菊池寛作、野淵昶演出)(9月3日~29日、中座)1956年
「ゲン売り出す・縁談の巻」(中野実原作、野淵昶脚色・演出)(1月1日~26日、中座)
「ゲン売り出す・縁談の巻」(中野実原作、野淵昶脚色・演出)(4月1日~25日、南座)
晩年のキャリア
晩年の野淵昶は、大阪の関西芸術アカデミーで演劇研究生の指導にあたった一方、大映京都演技研究所で校長を務めました。それぞれ明確な時期は分かりませんが、若手の育成に懸命であったことが少なくとも窺えます。加えて、一度前述しました通り、同志社大学で戦後から1960年まで教壇に立って演劇映画概論を講じました。
冬が寒さを容赦なく解き放つ1968年2月1日、野淵昶は71の齢で肺炎によりこの世を去ります。しかし、その死が野淵昶の舞台からの退場を即座に促すことはありませんでした。
没後の関与作品の上演
野淵昶が亡くなった後も、この演劇・映画の巨匠の作品は舞台に上げられました。
1968年12月1日から25日まで中座にて、「藤山寛当たり狂言選集」と銘打った、昼夜8本の作品に藤山寛美が出ずっぱりの公演が行われ、そのなかで野淵作の「ハプニング閻魔大王」が上演されました。(配役から判断するに、上述の「アプレ大王」のリメイクと思われます。こちらでは藤山寛美が閻魔大王を演じました。また、2年前に鬼籍に入った小島慶四郎も出演していました。)
そして、歌舞伎座で1972年12月1日から26日まで続いた吉例第六回 大川橋蔵特別公演では、野淵昶が脚本を担当した2幕4場の「新納鶴千代」が披露されました。この公演のパンフレットでは、同作品の潤色・演出を担当した巌谷槙一が以下のように野淵のことを語っています。
巌谷は、1965年8月3日から22日まで新橋演舞場で上演された野淵作の「徳川千姫」の演出を行なったことがあり、晩年の野淵と交流を持つ人物でした。
最後に
演劇、映画の匠として活躍した野淵昶の生涯について3本の記事で詳述してきました。どの記事も興味深い内容に仕上がっていて、野淵昶に対する関心を抱くきっかけをもたらすことが叶えば幸甚の至りです。
野淵昶の生誕126周年を祝いながら、フィナーレを飾るこの箇所の執筆と並行して思い出された、歌人・翻訳家の片山廣子によるエッセイ「ダンセイニの脚本および短編」を締めくくる一節を、オマージュを加えつつ、以下に紹介して終わりといたしましょう。
我々が野淵昶を受け入れても受け入れなくても
ただ薄っぺらな存在として誤り伝えられないようにと
愛する野淵昶のためにそれだけを
私はひたすらに祈っている。
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