「日本人」として有りたい姿
あんたは俺と同じ日本人かい?
インターネットが家庭に入り込んで20年もの月日が過ぎ去っていっているが、その間に進んだグローバル化ってやつの波は尋常ならざるものがあるよな。
街角で外国籍と思しき人々を見ない日はないし、俺たちが日々触れている世界中のニュースもモニタの向こうという感覚が徐々に崩れていっている気がする。
格差社会はいよいよ身近な問題として実感されるし、自分の子供がおとなになる頃に、どうやったら生き抜いていけるのかなんて、想像もつかない。
でも、それでも「俺たちが日本人としてこうありたい」と言う思いを明確にしていくことで、そこから子供が学び取ってくれることもあるはずだと思うんだよな。
今回は、「日本人として」って言葉について考えてみる回だ。
まあ、右よりな話にはならないとは思うけれど、付き合っておくれよな。
国という「虚構」
まず大前提として、日本を始めとするすべての国家は「虚構」だということがある。
何を言っているかわかんねーよってあんたは、ちっとこの本でも読んでもらえると腹落ちしやすいと思う。
とは言え、わざわざ読んでもらってからこのnoteを読んでもらうなんて出来ないので、ザックリ説明してみようと思う。
間違ってたら教えてくれな?
まず「国」ってやつについて考えてみる。
こう言う原点に返って考えるときは、言葉の意味からおっていかなきゃならんわな。
国(くに、こく)は、一般的に、住民・領土・主権及び外交能力(他国からの承認)を備えた地球上の地域のこと
出典:Wikipedia
例によってWikipedia先生いわく、そういうことらしい。
なるほど。住民と領土、主権、他国からの承認と来たもんだ。
この中で、物理的に観測できるものがあるだろうか?
実のところ、全然ないことに気づいてもらえると思う。
例えば、住民。
そこに人が住んでいることは、物理的に可能なんだが、そこに「日本人として」住んでいることは物理的に観測できない。
「日本人として」を証明するものは戸籍などの人間が作り上げた記録であって、物理的に「日本人」を観測はできないってわけだ。
同じ意味で領土もそうだ。
竹島は日本ですって言ったところで、実効支配されていることから、領土も物理的には観測できない。
主権に至っては、法律というやっぱり人間が作り上げた決まりによって存在を定義されているものに過ぎず、見ることも触ることも出来ない。
他国の承認なんて、まさに観測できない。なんなら、承認が文章になっていないようなケースだってある。
このように「国」ってやつは物理的な実体を伴わないものである、すなわち「虚構」というわけだ。
「日本」という虚構で俺たちが目指すもの
なんだよ、国なんて虚構なんだから、どうでもいいだろ?なんてことを言うつもりはサラサラ無い。
むしろその虚構があったからこそ、俺たちヒトは今のように発展できたんだから。
ヒトが他の動物と比べて、数を増やすことが出来たのは、この虚構のおかげなわけだ。
なぜかって?
虚構ってやつはヒト同士がここにコミュニケーションをすることなく一致協力することが出来るものだからだ。
例えば、会社。
利益のために何十人、何百人、場合によっては何万人ってヒトが一致協力して仕事をこなしている。
あんたの会社の社員全員の家族構成なんてあんたは知りもしないかもしれない。
でも、その社員一人一人がその家族のために働いているってことは容易に想像がつくよな。
更に言うなら、自社の利益のために行動するのは当たり前だと思うよな?
その「会社」ってやつは「国」と同じく物理的に観測することの出来ない「虚構」なのにも関わらずだ。
そんなふうに虚構というのはヒトがこの世界で生き残っていくために活用したもっとも根っこにある戦略ってことだ。
で、「日本」。
この虚構で俺たちは何を一致協力していくんだろうか?
言い換えれば、「俺たちが日本人らしく有りたい」と感じる時に、その日本人らしさってなんだろうってことになるかな。
謙虚さ?
建前と本音?
礼儀正しさ?
どれもそうだし、どれもそれだけじゃない。
それらを総合して「日本人」だと俺たちは感じている。
どうやら、それは言葉では表現しきれない何かがあるようにも感じる。
そこで、ふと考える。
その理想の日本人ってやつに俺たちは会ったことがあるだろうか?
俺はある。
忘れもしない。2011年3月11日。
東日本大震災。
その日、交通網は完全に麻痺し、帰宅困難者が街角に溢れかえっていた。
新宿の駅周辺は、全ての歩道が満員電車のように身動きができないような状況に陥っていた。
でも、誰も文句を言っていなかった。
誰も、ヒステリーを起こしていなかった。
黙々と牛歩のような歩みで各々の家へと向かって歩いていた。
ようやく駅周辺から離れて、なんとか普通に歩けるようになって、住宅街に足を踏み入れた。
そこで、手にお盆を抱えながらおにぎりを配っているお母さんがいた。
「どうぞお疲れでしょう。おにぎりいかがですか?」
懸命に見ず知らずの人たちにおにぎりを配っていた。
あの日。
俺たちは日本人であることに誇りを持っていた。
あの人たちのようになりたい。
俺にとっての日本人はあの日にあの場所にいた人々だ。
その誇りを胸に今日を生きてみよう。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの日本人の誇りはどこにありそうだい?
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