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命の使い方

あんたも今日は生きているかい?

この記事読んでいる時点で生きてるのはわかりきってるって話かも知らんけれどさ。

なにげに「俺は今日も生きている」って言い切るのって難易度高い感じもするんだよな。

いや、たしかに生き物的には生きていると思うよ。
たぶん。

その上でだ。
ヒトとして生きているか?って質問になるととたんにウググってなっちまうんだよな。

仕事にしろ、プライベートにしろ、俺はヒトとしてきっちり生きているのかって質問に対して「当たり前だ!」と胸を張って言える買って言われると言葉に詰まっちまうんだよな。

今回は一人のヒトが誰かに求められるってことについて考えてみる回だ。

まあ、誰しもが求められるわけじゃないし、求められることが全てでもないと思うけれど、ちっと考えてみようや。


求められること

今回この「求められること」ってキーワードを思いつかせてくれたのはこの記事だった。

いつものみんな大好ききゃらをさんの記事だね。

その結びの文章でこんなことを書いてくれている。

生きてる限り人はプレイヤーなんだよ

出典:きゃらをさん

この記事の中できゃらをさんは自分が行ってきた活動と、先駆者の行ってきた活動に差を感じたってことを表現してくれている。

これってさ。

どんな仕事だったり、プライベートだったりでも同じ感覚を持つヒトって多いと思うんだよ。

例えば比較的に結果が明瞭な仕事のパターンで考えてみる。

売上を上げる。
利益を上げる。
そのわかりやすい数字を作るために何が自分に求められているのか。
そのことをまあまあ必死に考えるわけじゃん。

経営者の立場。
管理職の立場。
現場の立場。

各々で考える要素は別になってくる。

更には経営者が管理職に求めること。
管理職が現場に求めること。
経営者が現場に求めること。
そして、現場が管理職に求めること。
現場が経営者に求めること。

いろんな立場があるわけだから、求め求められって言うパターンは無限に存在するわけだよな。

その無限とも言えるヒトとの関係性の中で俺たちは生きているってわけだ。

なかなかの無理ゲーだよな。

生きている限りプレイヤー

その無理ゲーの中でだ。

きゃらをさんの言う通り、俺たちは生きている限りプレイヤーであることが求められているってのはあると思うんだ。

なんでって?

だってさ。
みんなめっちゃ一生懸命生きてるじゃん。

そら、感覚としては「自分のため」ってのがあるとは思うよ?

それでもさ。

自分のために生きるためには誰かのために生きる必要があるってのが現実じゃんか。

逆い言うとだ。
誰かのために生きるって言う大義名分がないと、俺たちは一生懸命に生きるってのが難しいんだ。

家族のため。
仲間のため。
どこかの誰かのため。

俺たちは自分以外の誰かのためという大義名分が無いと自分の行動を自分で認めることすら難しいんだと思ったんだよな。

それ故にだ。

俺たちはプレイヤーとして生き続けることが必要なわけだ。
俺たち自身のために。

命ある限り戦え

きゃらをさんの「プレイヤーであり続ける」と言う表現はこういう風に考えていくとある意味では「呪い」のようなものかもしれない。

だって、俺たちは「誰かの役に立っている」ってことを実感しない限り幸せを感じることが出来ないって言う現実を実感することになるんだから。

ホントならさ。
家族も仲間も社会とも断絶して、何も感じずに日々を過ごして命を使い切りたいなんて思ったこと無いか?

俺にはあるんだけれど、現実として家族も仲間も社会もあって、その全てが大切だと思う自分もいるんだよ。

だからきゃらをさんの「プレイヤーであり続けろ」という言葉は俺にはこう聞こえるんだ。

命ある限り戦え

ってね。

だってそうしないと自分の目の前で誰かが不幸になっていく。
そんなの耐えきれないじゃんか。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちに残された命をどう使っていこうか?

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