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努力と結果と

あんたも日々努力を積み重ねているんだろうな。

俺たちは日々のスケジュールに追われながら、黙々ともしくは敢然と日々に立ち向かっている。
そいつは、社会に出ている者としては言葉にするまでもないありきたりな日常ってやつだ。

ありとあらゆるハードルが俺たちの前に立ちふさがっている。
そして、その一つ一つを丁寧に超えていく。
たまにハードルが倒れちまうし、なんならハードルに引っかかってコケてしまうこともある。
それでも、俺たちはゴールに向かって走り続けている。

でもちっと待ってくれよ?
俺たちはなんで「走って」いるんだ?

今回は「努力」ってキーワードについて考えてみる回だ。

ちっと一緒に考えてみようぜ?

努力と結果

まず、俺たちは結果というゴールに向かって努力を積み重ねているのが普通だよな。
この結果って言葉自体が難しいテーマをはらんでいる。

この記事でも書かせてもらったけれども、結果ってやつは俺たちが誰かと協力して作り出される価値そのものだと思う。

ポイントは「誰かと協力して」ってところかもな。
俺たちは俺たちの行動しかコントロール出来ないんだけれど、結果という客観的に評価されるものは、俺たちの行動だけではなくて、周りにいる仲間だったりお客だったりの行動が関わってくるってわけだ。

つまり、俺たちだけで「努力」をしても「結果」にはたどり着けないってわけだな。

結果を伴わない努力の価値

そこで、facebookでやり取りさせてもらっている今村さんがこんな問を投げかけてくれている。

努力とは、成功がなければ努力にならないのだろうか。
出典:今村さんのfacebook

こいつはちっと深淵なテーマだ。

努力っていうキーワードそのものはある種の魅力をはらんでいると思う。
なんつーんだ?巨人の星の「重いコンダラ」的なニュアンスを持っている言葉だよな。

※重いコンダラがわからないあんたは、このnoteの⑥も読んでくれよな

で、この努力。
努力そのものに対する価値ってやつが何者なのか。

努力って言葉を改めて辞書で引いてみるとこんな言葉で説明してくれている。

ある目的のために力を尽くして励むこと。
出典:goo辞書

努力ってやつはやっぱり何らかの目的があって初めて成立するものってことのようだ。
目的なき作業は「努力」ではない。それはただの作業でしかないってわけだ。

で、今村さんの問に戻る。
「成功」なき努力ってのは努力なのか?

まず、努力は目的があって初めて成立するので、その目的というゴールに向かった作業をしているってのが前提だ。
その作業が実を結ばないと「努力」とは言えないのかという問だ。

辞書的に捉えれば、努力の成立条件は「目的」であって「成功」ではない。

でも今村さんの問は多分こうだ。

「成功」を伴っていない「努力」をしているヒトをあなたは認められますか?
そのヒトが何かにしゃにむに努力している姿そのものにあなたは価値を認められますか?

こいつは、ちっとヘビーだ。
その努力の方向が全く頓珍漢に見えるときにも、そのヒトの努力を俺たちは礼賛することが出来るんだろうか?

俺たちオッサンは凝り固まった価値観に基づいて、その努力を「矯正」しに行ってしまうんじゃなかろうか?

努力しているヒトそのものは、俺自身は好きだし評価したい。
でも、その努力の「目的」に対するプロセスが明らかに自分にとって「間違っている」と思えるとき、その努力を「良い」と評価することは無責任だと言わざるを得ないんじゃないだろうか?

当然、俺の「間違っている」って感覚そのものが間違っていることだってあるとは思う。
でも、その感覚を置いておいて目の前にいるヒトの「努力」を手放しで褒め称えるのも違うよな。

なら、どうすればいいのか?

俺たちは、努力に向き合う必要がある。
向き合うためにはコミュニケーションが必要だ。
努力しているヒトに対してアクションをする必要だ。

そうすることで、少なくとも目の前のヒトの努力を「結果」につなげる事ができるはずだ。
何しろ結果は一人では作り上げられないってのが前のnoteでの俺の結論だからな。

そして、「結果」は次の「結果」の入口だ。
その「結果」を「成功」と判断するかどうかはヒトそれぞれだろう。

でも、最初にその「結果」を判断するのは「努力」をしているヒト自身なんだと思うんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはそんな連続で出てくる「結果」に向かって「努力」し続けられるんだろうか?

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