正しさをすり合わせるために必要なもの
あんたも正義感って感覚を持っているかい?
俺たちはガキンチョのころから「正しくある」ことを求められ続けてきたと思うんだ。
キチンと行儀よく食事しないと叱られたし、勉強をサボったら叱られたし、友達とケンカをしたらやっぱり叱られた。
振り返ってみると叱られた内容は多くのケースで叱ってくれるヒトの正義にもとる行為をしたときだと思うんだ。
まあ、当たり前っちゃあ当たり前なんだけれどさ。
そこでふと考える。
自分が誰かを「叱る」ときに俺は自分の正義を前提としているってことなんだよな。
それって本当に「正しい」のか?
今回は自分の中の正しさについて考えてみる回だ。
あいも変わらず出口のない話だけれども付き合ってくれよな。
反射的に判断してしまうこと
今回、この事を考える切っ掛けをくれたnoteがある。
成川さんはレストランでとある親子の姿をみてショックを受けたそうなんだ。
それは親子3人で食事していて、お父さんがスマホゲームに興じているって姿だったらしい。
親子でいるのに親子で過ごさずにスマホで個人の時間にしている姿ってのにショックを受けたってことなんだと読み取ってみた。
成川さんはその姿を見て瞬間的に「オイオイオイ」って思ったんだと思う。
それってお父さんとしてどうなのよってね。
でもすぐにそれが自分の常識の範囲外の行為だから発生した感情だって自らを分析したそうだ。
これって結構スゴイことじゃね?
自分の常識ってのを外から眺めるって言うほど簡単にできることじゃない。
なんつっても自分の常識なんだもんよ。
自分自身を縛り付けている基準そのものを疑ってかかるってことだもんよ。
基準という地面
俺たちにとって俺たちの中にある常識ってのは地面みたいなもんだと思うんだ。
重力と地面という縛りは俺たちを空という究極の自由に飛び立つことを許さない。
その代わりに重力と地面は俺たちが歩いて移動することを許しているという面もある。
常識ってのは俺たちを縛るものでありながら、俺たちの自由のために必要な地面ってわけだ。
その地面を疑うってことは自分が動けるための基準を疑うってことだ。
これはちっと尋常なことじゃない。
自分の歩いている地面と他のヒトの歩いている地面が同じじゃないって前提はお互いに理解し合えないかもしれない未来を覚悟するってことだもんな。
虚構を共有する
この常識ってのはある意味、虚構そのものなのかもしれないな。
俺たちヒトという生き物が他の生き物と違う部分。
虚構を共有して一致協力できるっていう特殊能力。
常識ってのはその虚構の一つなんだろうってことだ。
常識を共有することで、俺たちは協力して物事に取り組める。
でもそれは同時に他の常識を排他的にあつかうって状態を生み出す。
宗教や国家の対立で歴史の教科書はいっぱいになっている。
虚構は協力と対立の両方をヒトという生き物に与えてきたってことだ。
ただ、数多くある虚構のなかで、実に多くのヒトに受け入れられた虚構がある。
数字だ。
この数字ってのは概念だけの存在であるにも関わらず、数字そのものを疑うヒトはほとんどいない。
それほどゆるぎのない虚構って他にはないと思うんだよね。
だからこそ、俺たちは様々な事柄を数字で捉えようとする。
そうすることで、自分の中の常識を事実に変換しようとするわけだ。
でも、なかなかすべての事柄を数字に置き換えるってことは出来ない。
スマホを食事中にいじるお父さんの行動の理由を数字で表すのって難しいもんな。
成川さんはそれでもスマホをいじるお父さんを否定しない方法を模索したようだ。
そこで使われたもの。
それは想像力なんだと思う。
数字による全く揺るがない共有ではなく、想像力による共感。
同じ虚構でもそこには暖かさを感じるのは俺だけじゃないと思うんだよ。
だって、共感をしようという思いにはきっと優しさが必要だと思うからね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは優しき虚構を俺たちの中に作り込んでいけるんだろうか?
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