子どもから主体性を奪わないために考える
あんたも子どもの教育ってやつについて考えることがあるかい?
妻が入院して、我が家の息子は半ば強制的に自分のことは自分でやらなければならなくなった。
俺としてはもともと自分でできることは自分でやる方が彼自身にとって良いことだと思っていたので、そこは不幸中の幸いってことになるのかもしれない。
で、そんな息子を眺めていると、本当に思った以上のことが出来るようになっていることを思い知らされる。
え?それ俺教えたっけ?ってことも知るようになってきている。
明らかに家庭以外の世界で吸収してきた知識だ。
今回は息子の主体性について考えてみる回だ。
まあ、答えのある課題じゃないけれど、ちっと一緒に考えてみてくれよ。
危険と成長の天秤
今の時代、ありとあらゆる情報に対するアプローチ方法が用意されている。
子どもに携帯をもたせることをしさえすれば、子どもが今どこにいるかの把握だって可能な世界観だ。
俺たちがガキンチョのころには、想像もできなかった情報化社会ってやつが現実の世界として存在しているってわけだ。
でも、その状況ってのは親にとってみるとどういう状況なんだろう?
子どもの自主性を育てる前に親の心配ってのを先に立たせてしまいがちな世界観だと思わないか?
なんつっても、子どもの安全は何よりも大切ってのはわかるよ?
でも、それだからって子どもの自由な発想と活動を親の管理下に入れてしまって良いのかってのは、どうしたってつきまとう感覚だと思うんだよ。
今の御時世、どうしたって子どもは自由に外で遊ぶってことが出来ない状況にある。
感染リスクだってあるし、なにより子どもだけの判断で踏み入ったら危険な場所が普通にその辺にある。
極端な話、普通の道路ですら危険だ。
考えてみてくれよ。自動車ってのは本当に簡単にヒトを殺せる機械なんだぞ?
それが普通に道路を走りまくっているなかで子どもだけで行動させることってのは結構なリスクを伴っているってことを俺たちは知ってしまっているわけだ。
ただ、数字で見てみるといわゆる子どもの交通事故ってのは減少傾向にあるようだ。
出典:内閣府
子どもの交通事故って一番少ないんだな。
俺たちが子供の頃は御老体より子どもの交通事故ってのが多かったようだけれども、今やダントツで15歳以下の子どもの交通事故って少ないんだな。
これって、子どもの遊び方ってのが半ば強制的に変化しているってことなのかもしれないな。
俺たちがガキンチョの頃は「子どもは風の子」って具合で普通に一人で外遊びしてたもんだけれども、いまや直接子ども同士がどこかで待ち合わせして遊ぶって風景もあんまり見ないような気がするもんな。
我が家のザ・インドアな息子もそうだ。
全然外に遊びに行くなんてことをしていない。
その意味では、この子どもの交通事故推移は、親のほうが外に一人で子どもを出すってことに懸念した結果ってことなのかもしれないな。
子どもに判断させる重要性
子どもの交通事故が減っているってコトそのものは大変喜ばしいことだ。
ただ、それが子どもの自己判断のチャンスとトレードオフになっているってのが本当だとすると、素直に喜べない部分もあるよな。
子どもたち同士が主体的にコミュニケーションをとって、ときに衝突を繰り返しながら会話におけるルールを学ぶって機会は、社会全体のコミュニケーションを円滑にするために必要不可欠なことだと思うしね。
ところが、2020年からヒトと会って会話するってことそものがリスクになってしまっている。
子どもたちも放課後に一緒に遊ぶって機会が激減していると思うんだよな。
仮に今の状況が数年続くとして、我が家の息子の青春時代が「自粛」の名の下、コミュニケーションのタイミングを取れない状態になるとすると、一体どんなおとなになっていくんだろう?
身内としかまともに会話をしないまま、大人になるってちょっと危機感があると思うのは俺だけかね。
とは言え、冒頭に触れたように息子は息子で俺が教えていないこともどんどん吸収していっているのは事実だ。
だとしたらそんなに懸念することでもないんだろうか?
なあ、あんたはどう思う?
子どもたちの自主性の成長を俺たち大人はどうやってサポートしていけば良いんだろうか?
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