計画と幸福
あんたは今、自分が生きていることに幸せを感じることが出来ているかい?
俺たちが幸せを感じることってさ。
ホント簡単なことのはずじゃんか。
うまいもの食べた。
きれいなもの見た。
誰かの笑顔を見た。
爽やかな風を感じた。
ホント些細なことで俺たちは幸せを感じていると思う。
でも、その幸福感ってのは長持ちしない。
俺たちは辛いことでも嬉しいことでも、なんであっても慣れることに移行していくもんだもんな。
これは俺が聞きかじっただけの知識からの想像だけれども、そういう幸福感だったり興奮状態では脳内にエンドルフィンだとかドーパミンだとかの分泌がされ、一時的に脳みそがブースト状態になるわけだよな。
で、当然そんな脳みそV-MAX状態を続けていたら体が保たないので、出来るだけ速やかに通常モードに戻る。
そう考えるとだ。
俺たちにとっての幸福感も悲壮感も興奮感もどれも一過性になるってのが体のからくりって話になってくる。
今回はそんな一過性の感覚について考えてみる回だ。
ちっと、俺たちにとっての感覚の意味なんつーものを考えてみるかね。
ヒトに施されているデザイン
いつも通り、ネットをプラついていたら、こんな記事を見たんだよ。
ものすごく要約するとこんなことが書いてあった。
「ヒトは本来現代社会で生きるのは辛いと感じるように出来ているけれど、ヒト同士が慰め合うから生きていられる」
なんで辛いと感じるのか。
この記事から俺が感じ取ったのは、ヒトって生き物が「眼の前のこと」だけに集中するって構造になっているってことだ。
確かに、もともと狩猟採取生活からヒトという生き物は始まっていて、本来のヒトという生き物の仕組みとしては農耕という計画を前提とした生活に対応するようには出来ていない。
眼の前にある木の実。
眼の前にいる獲物。
そこに集中する様にデザインされている生き物なわけだ。
計画と幸福感
ところが、農耕を始めてしまったヒトという生き物は、この本来は生き物としてはなじまない「計画」ってのを強いられる様になった。
たしかに農耕によって、ヒトの生存確率は飛躍的に増大し、結果として人口はものすごく増えた。
定住することで、移動や狩りでの生命リスクも減るから寿命も伸びた。
さて、ここで思うわけだ。
俺たちは幸せである時間をどれだけ持てているんだろうって話だ。
これは俺の想像に過ぎないんだけれど、狩猟採取生活を送っていたヒトは眼の前に食べ物を見つけるたびに幸福感を味わっていたと思うんだ。
そう、食べ物は「当たり前」じゃなかったからね。
で、当然だけれど食べないと死んじゃうから、ある程度の頻度で食べ物を食べていたと思う。
つまり、それだけ幸せを味わっていたと思うんだ。
そして、農耕を始めることによって、その幸せは徐々に「当たり前」になっていく。
幸福をいつも味わえる様に計画をしたのに、いつも味わえる様になった瞬間に当たり前という感覚に幸福は塗りつぶされてしまったってわけだ。
計画という義務
たとえ計画が幸福を塗りつぶす行為だとしても、俺たちは計画をしないということは許されない。
なぜか。
生きるという価値が幸福という価値よりも大きいからだ。
言い換えれば「生きていればいつかいいことあるさ」という楽観主義ってことかもしれない。
冷静に考えるとそんな保証はどこにもないんだけれどね。
きっと、生き物としての本能で「長く生きたい」って感覚はプログラムされているものなんだろうと思う。
そのプログラムに沿って、俺たちは計画を立案することを日々重ねているってわけだ。
でもね。
この計画を立てるって行為そのものに幸福感を感じるってタイミングって少ないと思ったりもする。
あんたも聞いたことがないかい?
子どもがゲームをしすぎるのを抑える手段ってやつをさ。
なんでもゲームをやめさせたいなら、ゲームの進捗管理をさせれば良いってことなんだと。
RPGだったら、「今週中にレベルをいくつにして、次のボスを倒せるのがいつになって、その計画と現状の差分を分析して、その差分の理由を記録する」みたいな感じね。
それをやればいくらゲームしてもいいよって言うと、とたんにゲームが嫌いになるんだと。
本質的に、俺たちヒトは計画ってのが大嫌いなんだよな。きっと。
その大嫌いなことを続けることで生きる時間を伸ばし、そして幸福を感じるという博打を打つ回数を増やそうとする。
どうやら俺たちは今、そうやって生きているらしいな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは「幸福」とどう向き合っていくのが正解なんだろうな?
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