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物語に求められる複雑性

あんたは原作付きの映画ってのを見たりしているかい?

明らかに俺たちオッサンをターゲットとした「リメイク」の映画ってあるじゃんか。
宇宙戦艦ヤマトとか、キャシャーンやら、サイボーグ009とか。

まあ、アニメに限った話じゃないとは思うけれど、今の映像技術と時代背景を前提としてリメイクするってことそのものは評価に値するもんだと思うわけだ。

たぶん、いろんな印象を持たれることが多いリメイク作品だけれども、結構物語としての深みみたいなものを増加させているものもあると思うんだ。

今回は物語の深みってやつを増したと感じることが出来たリメイク作品について考えてみる回だ。

ちっと俺の趣味話に付き合ってくれよな。

宇宙戦艦ヤマトのリメイク

ぶっちゃけだよ。
宇宙戦艦ヤマトのリメイクってのは俺にとって大成功の部類になると思うんだ。

たぶん、いろんな意見があると思う。
とてもいろんな意見がね。

そのいろんな意見の中で、俺の意見としては主人公である古代の表現がだいぶ変わったことってのが意味が深い気がするんだよね。

もともとの宇宙戦艦ヤマトにおける古代進というキャラクターは、今見てみるとわかりやすい「ヒーロー」だったと思う。

困難に立ち向かい続ける信念。

そんな要素で固められたキャラクターだったと思う。

最初の宇宙戦艦ヤマトでガミラスを滅ぼしたときの「俺たちは愛し合うべきだった」という言葉ですら、まっすぐな言葉だったと思う。

古代進がまっすぐだった理由

じゃあ、なんでそんなに古代進というキャラクターがまっすぐだったのかってのを想像してみるとしよう。

まずは、アニメーションってメディアに対する期待ってのが今とは違うってのがあるよな。

ちょっと信じがたいかもしれないけれど、あの頃のアニメーションってのは「子どものためのもの」って大前提があったと思う。

今でも当然子ども向けのアニメーションってのは存在しているけれど、子ども向け「以外」のアニメーションが存在するってのが想像すらできなかった時代だったと思うんだよね。

そう言う時代背景の中でその「以外」のアニメーションとして世の中に存在感を提示できたはじめの作品だったと思うんだよ。宇宙戦艦ヤマトって。

その子ども向けじゃない作品としてのアニメーションの主人公としての古代進ってのは、それまでのヒーローとして描かれていた主人公とは一線を画す必要があった。

それまでのヒーローは熱血漢が大前提となっていて、迷うこともなく進み続けると言う姿が求められていた。

それに対して、古代進は何ていうのか「困難に立ち向かう」って姿がよく描かれていた。
それまでのヒーローたちは困難に立ち向かうのに力押しでなんとかしていたって印象が強い中で、古代進は覚悟で立ち向かうって姿が描かれていた気がするんだよ。

ただ、その立ち向かい方が今見てみると「シンプルすぎる」って思っちゃうってのがある気がする。

情報量を増やす必要性

多分だけれど、今この瞬間にかつての宇宙戦艦ヤマトのシナリオをそのままでやっても受け入れられないと思うんだよね。

たとえ、今の作画レベルで再現したとしてもね。

今の求められる物語に対して複雑性が足りないって評価されると思うんだよ。

なんでそんなに複雑性が求められるって思うのかって言うと、やっぱネットだよな。

ネットによって俺たちが日常的に触れる情報量ってのが、旧作の宇宙戦艦ヤマトが放映されていた時代に比べると指数関数的に増えていると思うんだよな。

結果として、俺たちが求めている物語に対する欲求ってのは情報の解像度みたいなものが格段に上がっている気がするわけさ。

ただ、宇宙戦艦ヤマト2202についてはその情報量を増やしすぎて視聴者を置き去りにしてしまった雰囲気もある。
実にさじ加減が難しいやつだな。

いずれにせよ、古代進と言うキャラクターはその情報量の増加というニーズに答える形でヒトとして複雑にならざるを得なかったってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこれから味わう物語は、どんどん情報を詰め込まれていくことになると思うかい?

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