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校則について考える

あんたも学生時代に意味のわからない校則ってやつに不満をいだいたことがあったかい?

まあ、俺たち団塊ジュニア世代からすると、何しろ数の暴力的に同世代のヒトが居たもんだから、校則によって締め付けってのをやっていないと、そもそもの秩序ってやつが保てなかったってのは、まあ想像がつくんだよな。

俺たちの中学時代とか、今じゃ考えられないくらい荒れてたからさ。
校庭に突如、地元の暴走族のバイクが乗り込んできてみたり、窓が投石で割られるなんて日常茶飯事だったもん。

でもさ、今って時代はそう言う荒ぶる魂が徒党を組んでいるような状況って考えにくいじゃんか。

今回は校則ってものについて、改めて考えてみる回だ。

今、校則って必要なのかね?

校則って言葉を思い出させてくれたニュース

まあ、社会人をしていると校則なんて言葉はめったに思い出さないよな。

だって、俺たちはそんな明文化されたルールじゃない暗黙のルールってやつにがんじがらめになってしまっていて、それどころじゃないもんよ。

でもこれからの世界を担っていく子どもたちがこの校則ってのに縛られて教育されているってのは厳然たる事実なわけだ。
なら、この校則の教育的意味合いってやつを考えるのは大人の仕事ってことだよな。

で、そんな事を思い出させてくれたニュースがこれだ。

ざっくりいうと、都議会の中の答弁の中で東京都教育委員会の教育長である藤田裕司さんがなんで髪型をツーブロックにするのを禁止しているのか?という質問に対して、「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているもの」という答弁をしたんだと。

うん、どういう世界観?

巷では「おめ~なにツーブロックにしちゃってんだよ~?」とか言って因縁つけるのが流行ってんの?
なにその世紀末感。

案の定、データがあんのか?とかツーブロックは普通の髪型だろとか、やいのやいのした意見がネット上にも散見されるようになっている。

そもそも校則ってなんで出来たのか

藤田裕司さんの答弁の如何なものかっぷりはおいておくにしても、そもそも校則って何のために出来たのかってのを調べておく必要があるよな。

どうも調べてみると、1873年に文部省が制定した「小学生徒心得」なるものが原型らしい。

この中身を斜め読みすると、まあ中身はざっくりとしたことしか書いてないんだよね。

コレを見て俺たちがイメージする校則の細かさと偉い違いだってあんたも思うと思うよ。

で、なんで校則は髪型の規定から服装規定にいたるまでこんなふうに細分化去れるようになったのかってことだよな。

ちっと調べてみると1999年放送大学教材の「生徒指導」(秦政春著)って本にそのあたりが触れられているらしい。
※今は絶版でAmazonでも扱ってないっぽい

ちょっとだけ中身に触れているサイトがあったんで読んでみたわけよ。

曰く、校則が細分化されていった背景には昭和40年代の学生運動があるらしい。
要するに大学生が学校に向かって権利主張した流れが中高にも影響して生徒が荒れたんだと。

で、それに対抗するべく校則の厳密化が進んでいったってことらしい。

要するに教育者を守るための盾として校則が機能していたってことなんだってさ。

校則の教育的意味

じゃあ、校則は生徒のためのもんじゃないのか?って言うとそうも言い切れない。

校則というものがあることによってルールを守る重要性を教育するってのが教育面での校則の存在意義だって言われているもんね。

ただこいつはちっとばかり懐疑的だ。

あんたは校則が何のためにあるのかって説明を受けた記憶があるかい?
少なくとも俺はない。
ルールの存在している理由を把握せずに、そのルールの存在意義を理解することなんて出来っこないもんな。

そもそもツーブロックにしてはいけない東京都教育委員会教育長の説明からしてネットで盛り上がっちまうくらいに説明のしにくいもんだもんな。

今の校則の細かな規定の必要性を説明出来ないとすると、生徒としてはルールを守る重要性を知ることが出来ないわけだ。

こうなってしまうと、校則の教育的意味ってのは持たせることが著しく困難ってのが現実らしい。

校則は教育者を守れるか

じゃあ、教育者を守るという目的は果たせているんだろうか?

これも疑問符をつけざるを得ないよな。

今の世界ではネットを前提としてより複雑に生徒は世界と関わっている。
昔みたいに直接教師に暴力を振るうようなことはしないで、より巧妙に陥れることだって今の生徒には出来るもんな。

そのときに「ツーブロックにしない」という校則があって、実際にツーブロックにしないって状況が出来ていたとして、その状況が誰かの大きな意味での暴力を抑制できるのか?
んなわけないよな。

むしろ意味のわからない校則を強制してくる教育者に矛先が向きかねない。

その意味でも校則は機能していないってわけだね。

校則が無くせない理由を想像する

教育面でも教育者の保護という意味でも機能していない校則。

じゃあ、なんでそんなものが存続しているのか。

コレは想像に過ぎないんだけれども、教育現場が「失敗できない」って状況があるんじゃないだろうか?

俺たち自身の教育者に対する期待ってのは異様に高いと思うんだよ。
先生が喫茶店でタバコ吸ってたって噂がでるだけで、「如何なものか」って感覚が発生する労働環境って異常だよな?

先生たるもの聖人君主たれっていう俺たちの感覚が教育現場をがんじがらめにしていると思うわけよ。

がんじがらめの労働環境からは変革なんて挑戦は生まれっこない。
結果として意味のわからない校則が維持されてしまうってわけだ。

そうか。子どもたちを分けのわからない校則で縛り付けているのは俺たちのそう言う思い込みから生まれた状況なのかもしれないな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの教育者への期待が子どもたちを縛り付けているとして、俺たちには何が出来るんだろうな?

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