「常識」が与えるものと奪うもの
あんたもAIで画像やら動画やら作ってみて遊んだりしているかい?
もはや経済活動とも切り離すことが出来なくなってきているAIだけれども、会話にしろ、画像にしろその正確さに難が残っているってのは多くのヒトが実感しているんじゃないかなって思うんだよな。
そんな風に思っていたら、こんなnoteを書いてくれる御仁がいらっしゃった。
消雲堂さんはAIが不正確な理由をAIに聞くという、実に現代的なアプローチをなさったそうだ。
やっぱAIの不具合はAIに言い訳してもらわんとなぁ。
で、その言い訳としては「インプットデータの不正」ってことらしい。
おおう、見事な言い訳だ。
とかニヤニヤして読ませてもらったんだけれど、ふと思ったんだ。
あり?これってヒトという存在の認識方法についての何かが裏に潜んじゃいないか?ってね。
今回はAIの認識している世界とヒトの認識している世界について考えてみる回だ。
ちっと俺たちの眺めているやり方を俯瞰してみようぜ。
AIがこさえる画像
消雲堂さんは画像生成AIがこさえる画像の手の指の数がいやなことになるケースに注目したらしい。
確かに俺も「なんでこんなグロテスクな表現が出来上がるんだろう?」って思ったことは何度かあるんだよな。
この画像は「針仕事をするおばあちゃんの手元のアップ」ってワードでAIに作ってもらったんだけれどもさ。
ええと、どんな状況?って思うんだよな。
左下の手は明らかに「右手」。
右下の手は「左手」に見える。
こう見ると「あれ?3人がかりで針仕事してるの?」って思えちまう。
それに左上の手は小指がぶっちゃけどうなっているのか想像できない感じになっている。
極めつけは右上の針っぽい何かを持っている手。
もはや何を持っているのか想像が出来ない。
暗殺者の武器かなんかかしら?
赤い糸的なものが針と混然一体になっているような何か。
いやいやこれじゃダメだろ。
そう思ったんだけれど、ふと思ったわけよ。
それってなんで「ダメ」って思ったんだ?ってさ。
ダメな理由
考えてみるとさ。
この画像の良し悪しを感覚として俺が処理するときに、いろんな前提を無意識のうちに設定しているってのがある気がしたんだよな。
消雲堂さんのAIへの問いかけの結果としては指がちゃんと5本描かれていない画像が世の中にはいっぱいあるからって回答が来たそうだけれど、これってたぶん「そういうような角度」で描かれている画像がいっぱいあるってことか持って思ったんだよ。
例えば手元ってキーワードで素材検索をcanvaでしてみた。
これはAI生成画像じゃないんだけれど、まあ当たり前っちゃあ当たり前だけれど、普通の画像に見えるじゃん。
ただ、よく見てみると一番下に添えられている手の指は全部は映ってないんだよな。
なるほど。
こういう画像をもとに「手元」ってのを認識しているってことか。
つまり理由は「AIはヒトの手は一般的に5本指のケースが多い」と言うことを「知らない」ってわけだ。
ヒトの思い込み
でだ。
このAIの認識が俺の思う通りのことだとしてだよ。
つまりは「偏っている」のはヒトの方なんじゃないか?って話が思いつくわけよ。
だってそうだろ?
誰もヒトの手は「こうあるべき」なんてことを決めつけられるもんじゃない。
ヒトの手が5本指に限定するなんて話は俺たちの思い込みってことになる気がしてこないか?
だって、画像で5本指が明確に描かれていないってことがいろんなケースで起きていて、そのことをAIという仕組みは認識する方法がインターネットくらいしかないんだもんよ。
実際にヒトにあうことも、手の指の数が違うことで日常生活で起きる様々な不具合とそれに伴う社会的にヒトが経験することも情報としてはインプット出来ないんだもんよ。
そう考えるとさ。
想像以上に俺たちは世の中の姿ってのを思い込んで眺めているってことになるじゃないか?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちが思い込みで世界を眺めているとして、どんな思い込みが俺たちを支配していると思う?
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