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自己という他人にとっての外側

あんたは誰かの言葉に自分が揺り動かされるような感覚にとらわれることがあるかい?

大人気のやひろさんがこんな記事を書いてくれていた。

やひろさんは、「THEエッセイ」という感じの記事をいつも書いてくれている。
ホント、言葉の選び方一つとっても、ヒトの感情がどうすれば動くのかってのを意識している様に見えるんだよね。

俺も日々精進していかんとなぁ。

で、やひろさんは「卑屈」と「自虐」は違うということを書いてくれている。

曰く、卑屈は自分が中心にあり、自虐は他人と自分の関係の中で成立するというふうに読み取ったんだよね。

今回は「自分」ってものが発信においてどんな意味を持つのかってのを考えてみる回だ。

ちっと、俺たちのコアってのを考えておこうぜ。


自己中心的という言葉

まず最初に整理しておきたいのがこの自己中心的という言葉についてだ。

俺たちは俺たち以外のヒトの感情ってのを直接理解することは出来ない。

もしかしたら、ハチとかアリのような群生の生き物は何かを共有しているのかもしれないけれど、少なくともヒトはそういう能力を持っていないってのが一般的な理解だと思う。

ミツバチやアリが内部分裂して内戦になるとか聞いた時ないもんな。

そう考えるとヒトってのはミツバチやアリとは違って、本質的には「感覚を共有する」ってことは出来ない種族なわけだ。

その代わり、ヒトは「意味を共有する」という特殊能力を持っている。

いつも俺が書いている神だったり貨幣だったり国だったりという虚構をつかった意味の共有だ。

この虚構たちは自己という枠の外側にいつだってあると思う。

そうなんだよな。「意味」ってのが「虚構」に裏打ちされている以上はだ。
「意味」ってのはいつだって俺たちの外側にあるってことなんだ。

俺たちはいつだって俺たち自身のために「意味」を求めているのに、それは俺たちの外側にある。

自己を中心に添えざるを得ないのに、その自己が求めるものはそこにはない。
絶妙に皮肉だよな。

自己という「外側」

でだ。
ここでもう一つの事実が出てくるじゃんか。

つまり、俺たちは俺たち以外にとっては「外側」の存在だってことだ。

俺が日々書いているnoteもだ。
あんたにとっては「外側」のことだと思う。

こいつは地味にエグい話じゃないか?
だって俺たちは何かを話すたびに誰かにとっての「意味」になる可能性があるってことだぜ?

俺たちは知らず知らずの間に自己を表現している。

そして、それがいつの間にかどこかの誰かの「意味」に化ける。

つまり、何かの行動のきっかけになる。

その行動に対する善悪だとか大小だとかはあるとは思う。
だが、俺たちはその行動の原動力の「意味」になっているってことじゃんか。

そんな「意味」になりたいかどうかなんて俺たちの意図はそっちのけでさ。

「意味」を背負うってこと

俺たちがネットやSNSを手にした瞬間。
俺たちはそういう誰かの意味を背負う事になったと思う。

あんたの発信が誰かの行動のきっかけになったことって無いか?
あんたが好きなドラマのことを発信したのを読んで「なにか物語が作りたい」って思ったやつがいないと思うか?

そういう可能性はいつだってあるんだよ。

でもさ。
そんなもんを背負って発信しているやつなんて、そうそういないだろう。

オモロイよ。
楽しいよ。
あいつバカじゃねぇの。

なんにも考慮しないで感情を文章化したり映像化したりするヒトもいる。
そして、めちゃくちゃ考えて作品をこさえるヒトもいる。

なぜ考えないのか。
そして、なぜ考えるのか。

きっと、俺たちは考えようが考えまいが、自己というものに「意味」を感じたいんだろう。

だって、自分の外側にしか意味ってのは存在しないんだから。

俺たちは俺たちの内側にある自己を文書化、映像化することで外部化して、自己の意味を再認識しようとしているってわけだ。

そのために俺たちは文章を書く。
そのために俺たちは映像を作る。
そのために俺たちは発信し続ける。

なあ、あんたはどう思う?

俺たち自身の意味が誰かの意味になるってことをどう捉えて行けばいいと思う?


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